問:私の全ては如来蔵から変化したものだとしたら、どうすれば如来蔵を見ることができるのでしょうか?例えば座禅中に法塵を見て、それが如来蔵の幻化であると知り、意根の作意があることも理解し、意識が認識していることも分かり、如来蔵が一切の法にあることも知っています。しかし依然としてその本体を見ることはできず、現量境では法塵を見るだけで、そこに覚知の分別があるだけです。他のものは見えず、幻化の説も伝聞に過ぎません。どうすれば真に如来蔵を見ることができるのでしょうか?
答:まず、あなたのこれらの知識は全て理論的なものであり、意識が他から学んだものか、あるいは意識の推論・推測・憶測・解釈に属するものです。実証されたものではないため、全て真実とは言えません。従ってこれらの内容を知っていても、自心の意根にとって実質的な影響はなく、意根の認識が変わらなければ身心世界も変化しません。実際これらの知識は無知と同様で、畢竟「耳で聞くのは虚、目で見るのが実」なのです。学んだ理論的知見は実際の証得からは程遠く、諸識の働きについて依然として混乱したままでしょう。逆境に遭えば疑念が増し、これまでの認識を否定したり、見解が逆転する可能性もあります。
真に如来蔵を見るためには、理論に基づく推論や鸚鵡返しの学習ではなく、修行に励んで如来蔵を証知しなければなりません。如来蔵の証知には多くの因縁と条件が必要です。まず業障を消除し、福徳を増やし、定力を具足し、信心を円満にし、戒律を厳守し、忍辱の修行を積み、これら一切の法に精進し、最終的に般若智慧を具足しなければなりません。要するに、如来蔵を証得するとは凡夫の心性を菩薩性に転じることであり、身口意の行い全てが菩薩に相応するものであり、戒定慧が菩薩と同様で、煩悩性障が軽減され、菩薩の大福徳と大智慧を具え、心量が菩薩と同じく広大で、常に衆生に順じ、大いなる心を発して衆生を利楽することです。
これはちょうど脱胎換骨するが如く、身心世界に相応の転変を起こし、凡夫の段階とは明らかな差異と大いなる進歩を示します。要約すれば菩薩の六波羅蜜万行を具足せねばならず、不足すれば見道して真の菩薩となることはできません。今から計画的かつ段階的に自己を全面的に完成・向上させ、因縁の時節が熟すのを待ちましょう。焦る心を持たず、得失に惑わされず、功利的な心を起こさず、大いなる発心を起こし、因上は努力し、果上は縁に随うべきです。
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