定を修め呼吸を観じる際、意識はただ呼吸の動きを観じ、息が入る出ることを知覚し、息の長短を知るだけで、知の本源が何であるかという念いを加える必要はありません。この知が最終的にどのような結果をもたらすかについては、それは後のことであり、現在結果が出ていない以上、推測すべきではありません。意識の推論は意識の独りよがりに過ぎず、独りよがりでは決して問題は解決できません。意識と意根の双方が望むところが合致して初めて、物事は見事に合致して円満に解決され、最終的に結果がありのままに現れるのです。それこそが「証」と呼ばれるものです。
意識の推論が悪いわけではありませんが、それは単なる道標に過ぎません。具体的に進むかどうか、またどのように進むかは、依然として意根の決断に依存しています。意根が決断しなければ、意識がどのように道案内しても無駄です。時には意識が推論しなくても、問題は順調に解決されることがあり、推論はかえって事を遅らせることもあります。方向性が正しければ、推論せずに進んだほうがより速く、より安定して進めるかもしれません。意識を使いすぎるのは良いことではなく、意識を使えば使うほど意根は無能になります。意根が無能であるということは、あなたという人間全体が無能であるということです。操作指揮システムに問題があれば、どうやって操作できるでしょうか。
修行とは愚直な人が行うものであり、賢すぎると真摯に物事に取り組まなくなります。意識が大まかな方向性を示したら、目を閉じて心を休め、陰ながら監督すれば十分です。あまり多くを気にしないでください。意根が自らの力で一旦歩み出し、目的地に到達すれば、その能力は実に強大なものとなります。意識に引っ張られて進むことに依存すれば、意根は低能で無能になり、どんな大きなことも成し遂げられません。
意識の推論は、本質的にはすなわち妄想です。妄想とは見えないという意味であり、見えてしまえばもはや妄想とは呼べません。ある人々は意識で第八識を妄想し、ある場所で何らかの作用を起こし、そしてこれを「明心開悟」と定義します。煩悩を断つ必要もなく、禅定を修める必要もなく、せいぜい数分から十数分ほど心を落ち着かせられれば見道できると。このような行いの結果がどうなるかは、皆さんもおわかりでしょう。もしこれが開悟だとするなら、夢で見たことも有効であり、夢で金の山銀の山を見れば、目覚めたら大金持ちになっているはずです。夢の光景は所詮現実ではなく、事実ではありません。独頭意識の推測など、あらゆる作為をどうして真に受けることができましょうか。大いなる智慧、真の智慧を得ようとするなら、真面目に定を修め観行し参究すべきであり、意識が柔軟機動的に結果を導き出すことを許してはいけません。意根がその結果を認めなければ、意識のあらゆる所業は無駄に終わるのです。
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