衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年11月25日    月曜日     第1開示 合計4288開示

意根の捨受

捨受とは苦楽の感受を感じない受のことであり、意根が捨受であるという説にも一理ある。意根は身体の触覚に対しては捨受であり、六塵の境界を直接感受しない。色身がどれほど痛んでも、意根は痛みを感じず、身識と意識が痛みを感じる。身識と意識が存在しない時、色身は痛みを感じない。例えば手術の際、身識と意識が存在すれば、人は意識が清明であり、必ず激しい痛みを感じる。痛覚を除去するためには、麻酔薬を投与してまず身識を滅し、次に意識を滅する。こうすれば切開手術でも色身は痛みを感じない。

歯痛の際、眠りにつくと六識が滅して痛みを感じなくなるが、歯の炎症は依然として存在しており、目覚めると再び痛みが続く。時には夜中に痛みで目が覚めることもある。なぜ夜中に痛みで目が覚めるのか。昏睡状態では身体が非常に悪化していても痛みを感じないが、目覚めると耐え難い痛みを感じる。地獄で業報を受ける際、痛みのあまり気絶して初めて痛みを感じなくなるが、業力は罪人を気絶させず、業風が吹きつけると罪人は再び意識を回復し、業報を受け続ける。禅定中も痛覚は軽減または消失する。六識が消失するか微弱になるためである。

したがって痛覚は身識と意識が共同で体験する覚受であり、意根にはそのような覚受はない。仮にあったとしても、意識はそれを知らず、観察することもできない。衆生は皆、六識の覚受をもって覚受としている。六識が滅するか微弱になると、意根がどのような感受や心理状態にあろうとも、意識はそれを知らない。知らないがゆえに、意根には何の感受もなく、何の心の動きもない、あるいは意根は非常に単純で智慧が浅いと考える。

意根の機能作用が強大化して六識に取って代わる時、あらゆる覚受は意根のものとなる。しかしこの時、意根の禅定と智慧の修養は既に非常に卓越しており、ほとんどが捨受であり、情緒の波動はほとんどない。一般の衆生の意根には依然として苦楽の感受があり、捨受だけではない。意識に似た心理的覚受、悔しさ、抑圧感、煩わしさ、恨み、喜び、楽しさ、興奮があり、情緒の波動が大きいからこそ、怒りが天を衝く、手に手を取って踊り狂う、喜びを顔に浮かべるといった情緒的表現が現れるのである。

——生如法師の開示
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