衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年11月23日    土曜日     第1開示 合計4287開示

意根の受

意根は捨受だけではなく、苦楽受もある。意根には無明と煩悩があり、善悪の心所法があるため、必ず苦楽受が生じ、苦楽受によって貪りと瞋りの煩悩が生起する。もし意根に捨受しかなければ、人に殴られ罵られ辱められても無関心であり、意識は辛く感じるかもしれないが、すぐに過ぎ去り、報復行動など起こさない。これは大修行者の優れた修養と品德であり、一般人は到底持ち得ない。もし意根に捨受しかなければ、賞賛されて天まで持ち上げられても無関心であり、権力・色欲・名声・利益の前でも動ずることなく、それらを追い求めることはなく、栄華富貴に淡白である。意識はこれらを好むかもしれないが、少し好むだけであり、行動に移すことはない。これが大修行者の徳行と修養であり、一般人は決してこうはならない。

意根が六塵の境界を領受するには多くの場合六識を媒介とするため、六識には境界を明瞭に了別する機能があるので、受も顕著で直接的である。一方、意根の受はやや間接的で、晦渋であり、意識が気づきにくいため、意根には受がないと言われるのである。色身における受は、意識と身識が直接領受する。色身の痛みや快適さは身識と意識が直接感じ取るものであり、六識がない時には、色身の痛みや快楽の接触を意識も身識も感じない。しかしこの時、意根は感じているだろうか? 意根は確かに感じている。だからこそ、気絶や睡眠中に意根が六識を喚起して了別させ、色身の問題を処理する方法を探るのである。たとえ六識を喚起して意識を回復させなくても、気絶や睡眠中の色身の表情や体勢は、意根に覚受があることを示している。

衆生は六識の受をもって受としているため、意根の受は体得できない。意識の智慧が不足し道種智がない段階では、意根に受があることを観察することもできない。したがって、多くの人が意根に受はないと言うのも不思議ではないが、これは正理ではない。五遍行心所法とは作意・触・受・想・思であり、意根にも五遍行心所法がある。ゆえに意根には必ず受がある。


——生如法師の開示
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意根の捨受

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