衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年11月21日    木曜日     第1 回の開示 合計4286回の開示

五遍行心所法の運行

五遍行心所法における一切倶とは、五遍行心所法がすべての識心とともにあり、すべての法とともに存在することを指します。識心が活動している限り、必ず五遍行心所法が同時に活動しており、五遍行心所法を離れては識心は活動できず、存在することも、了別活動を行うこともできません。同様に、すべての法においても識心の五遍行心所法が存在します。なぜなら、すべての法には少なくとも第八識と第七識の作用が必ず存在し、五遍行心所法はこの二つの識の作用に必然的に伴うからです。

五遍行心所法が互いに倶生するとは、これらの心所法が集合して生起し活動することを意味します。例えば第八識が一つの法を生じる際には、五遍行の全ての心所法が第八識の活動の初めから終わりまで付随し、一つも欠けることがありません。しかし第六識と第七識の場合は必ずしもそうではありません。第六識と第七識が作意した後、もし関心がなければ触を起こさず、特に第七識である意根はそうです。触れた後も必ずしも受を生じる必要はなく、特に意根はそうです。受の後も必ずしも想を生じる必要はなく、特に意根はそうです。想の後も必ずしも思を生じる必要はなく、特に意根はそうです。意根の心所法が次の段階に進まなければ、六識は現れず、現れても消滅して活動を停止します。特に意根の思心所法が現れなければ、六つの識はすべて現れません。ここに意根が王者として君臨する統治的地位と、その絶大な権限が窺えます。

仏法は極めて深遠であり、思惟が少しでも不十分であれば誤りが生じます。しかし大多数の人の思惟には偏りがあり、自らそれを発見することはできません。まさに自らの思惟が不十分であるが故に、やむを得ず著名人の言説を盲信し、既存の答えに依拠してこれを究竟と見做し、確実なものと考え、誤りに気付かないのです。これは現在の仏教界において極めて普遍的な現象です。

——生如法師の開示
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意根の受

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