衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年11月19日    火曜日     第1 回の開示 合計4285回の開示

意識が単独で法に対して思惟・分析・理解・推理を重ねて知ることは、現量智と言えるでしょうか?

意識による思考や推論によって導き出された結論は、実証されたものではなく、自らが証得したものでもなく、真実で使用可能な証拠による裏付けがないため、内心の疑惑は断ち切られていない。一定の時を経てこれと相反する事実に遭遇すると、過去の結論を悔い改め覆すことになる。そして意根の深層に潜む疑惑は、意識に智慧がなければ根本的に発見できず、したがって意識の推論は疑いを断つことができず、意根に信を生じさせることもできない。それでは実用にもならず受用も得られない。

たとえ推論の結果が完全に正しく、100%正確であったとしても、それは非量である。なぜか?例えばあなたが「私があなたの物を盗んだに違いない」と推論し、実際に私が盗んだとしても、あなたが直接目撃したり現行犯で捕らえたりしていなければ、あなたの推論は無意味であり、裁判所はあなたや他の人の推論に基づいて私を有罪判決にすることはない。たとえ私自身が盗んだと認めたとしても、盗んだことを証明する確固たる証拠がなければ、裁判所は有罪とすることはできない。縁ある人の罪業を逃れさせるため、自ら進んで代わりに罰を受けようとする者がいたとしても、説得力のある真実の証拠がなければ、たとえ裁判所で自ら罪を認め、他人とは無関係だと主張したとしても、裁判所は一方的な供述だけで有罪判決を下すことはできない。

仏法において禅定を得ていない状態で、五陰十八界の活動から第八識を推論し、第八識にある種の作用や機能を想像したとしても、親証によって証得していない限り、このような推論には功徳の受用がなく、何も変化を起こさない。依然として我見は残存し、三縛結に縛られたまま、命終えて三悪道の果報を免れることはできない。第八識の推論が正しかったとしても、五、六割あるいは七、八割を想像できたとしても、大智慧が生じることはなく、依然として三昧の境界も功徳の受用もなく、凡夫のままであり、このような想像や推論によって無明の煩悩を断じることは永遠にない。

歴代の祖師方が用いた修行方法と歩んだ道は絶対に正しく、現量に適い、その成果は真実で信頼に足る。仏教に対し極めて大きな好影響と推進力を与え、祖師方の開示は全て修証の真理を示し、実践から生まれた真知である。後世の衆生は福徳薄く障礙深きため、祖師方のように身心を捨てて修行に励むことができず、多くは便宜主義的な心理に囚われ、近道を求めようとする。修行とは自我を捨て、あらゆる代償を顧みずに進むもので、どこに近道があろうか?一歩でも道を省けば、それだけ功徳を減じ、身心の体験を減らし、損失を増やすことになる。実際これは自らを欺きさらに他者をも欺く行為である。もし近道があるなら、仏陀が私たちに教え導かないはずがあろうか?衆生がこれほど苦しんでいるのに、仏陀が衆生の成仏を早め、回り道を減らすことを望まないはずがあろうか?

仏陀の教法に合致しない修行、仏陀の本懐に背き衆生の利益を損なう修行は、遅かれ早かれ必ず破滅し仏教から排除される。

——生如法師の開示
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法住智は過去と未来を知ることができるが、これは現量知であるのか、それとも比量知や非量知であるのか?

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