衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年11月17日    日曜日     第1 回の開示 合計4284回の開示

法住智は過去と未来を了知するが、これは現量知なのか、比量知および非量知なのか?

法住智があれば解脱を得ることができる。ゆえに法住智は十二因縁法を現量に証得する智慧である。たとえ過去未来を知ることができても、それは現量による知であり、比量ではない。比量によって知る智慧は浅薄であり、ある法に依存しなければ知り得ない智慧は信頼できず、究竟的ではない。一旦依るべき法が現れなければ、比量による知は消滅する。比量知の中には、意根が自ら参究する過程がない。ゆえに意根は親証できず、意識も単独で知ることはできない。推論の中には比量に属する部分もあれば非量に属する部分もある。たとえ正しく推論したとしても、それは現量ではない。なぜなら意根は知らないからである。意根の知は、知るときは知り、知らぬときは知らぬ。極めて速やかに境界線が生じ、当体に顕現する。意識による緩慢な思惟研究を必要としない。

ある者が「過去と未来を見ることができず、過去と未来の法が現前に現れない以上、過去と未来の法については比量知であるべきだ」と説くが、このような見解は正しくない。いわゆる現前とは必ずしも眼前に現れることを要しない。智慧は眼識によって発起されるものではなく、意識と意根が共同で発起するものである。意識と意根は完全に過去未来の法を証知し証実することができる。特に意根は根本的に時空の障害を受けず、如来蔵に随って一切法を知る。過去世の法は想起しようとすれば想起でき、未来世の法は了知しようとすれば了知できる。夢境や定境がこの点を明らかにしている。ゆえに意根が知らぬものは現量智慧たり得ない。意識が現量知する時、意根が必ずしも現量知するとは限らない。意識の知は様々な因縁によって無視され取消されることになる。


——生如法師の開示
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意識のみで法を思惟分析し、理解推理して知ることは、現量智でしょうか?

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