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日常法話

2024年11月15日    金曜日     第1開示 合計4283開示

現量と非量の重大問題

昨日、ある人物が様々なデータ指標に基づいて分析・予測し、今日の株価が10%上昇すると発表しました。結果として今日は確かに10%上昇し、一点の誤差もなく、非常に正確でした。この人物の昨日の予測は現量でしょうか。この人物が今日の株価の動向と技術的データ指標に基づいて分析・予測し、明日の株価は2%下落するとしました。翌日になってみると、確かに株価は2%下落しました。では、この人物が今日分析・予測したことは現量でしょうか。いずれも現量ではありません。予測していたのは非量です。たとえデータがどれほど正確無比であっても、株価の動向は自ら目撃したものではないため、現量ではないのです。データ指標に依存して推論、思惟、分析、推測、推理することは、すなわち非量です。私が「あなたは明日悪事を働くだろう」と予測しても、現時点であなたはまだ悪事を働いていないのですから、悪事を働くことは事実ではありません。これは独頭意識による予測、推測の産物であり、したがって現量ではなく非量なのです。現量とは、その場で彼がまさに悪事を働いているのを見ることです。しかし、実質的に彼が善いことをしている場合、あなたの見たものもまた非量となります。

私は両手を握り拳にし、一方の拳には一円玉を握り、もう一方の拳は空です。そして右手の拳を差し出し、ある人に尋ねます:「この拳の中に硬貨はありますか?」相手はしばらく考えて「硬貨があります」と言いました。彼の推測が当たったことを祝福しますが、それでもこれは非量であり、現量ではありません。なぜなら、この答えは彼が現量観察によって得たものではなく、推測によるものだからです。もしこれが現量観察によるものだと言うなら、彼は拳の中に硬貨があるかどうかを見てはいません。もし神通力があれば、天眼で見たものも現量見となります。しかし彼には神通力がありません。したがって、肉眼で見えないものは直に見たことにはならず、それは推測、臆測、推定に過ぎず、非量なのです。事実を見ていないということは、すなわち非量であり、現量ではありません。

いったい何が現量なのか、皆さんは今、はっきりと理解できたでしょうか?現量とは現前に存在する法であり、それを直に見て、見たことが真実で誤りがないこと、これが現量観察であり、現量の智慧による認識です。もし現実に存在する法ではなく、現前に見ている法でもないのに、ただ独頭意識の思惟、推測、想像によって生み出されたものは、純粋に非量です。株価の動向は現前には存在せず、翌日になって初めて見ることができます。現在の見解や結論は直に見て得たものではなく、心の中の推測や予想はもちろん想像の産物である非量です。予想がどれほど正確であっても、それは直に見たものではなく、現前に株価の大勢を観察して得たものでもありません。したがって、100%非量なのです。

同時に、比量でもありません。なぜなら、法と法の間の平等な比較がないからです。比量とは、二つの法または複数の法が互いに比較されて結論が導き出されるものであり、二つ以上の法が併存する関係にあり、互いに比較することが可能です。比較しなければ結論を出すことも、決定を下すこともできません。直に見ていることと想像すること、その智慧による認識、心境、覚受が同じでしょうか?親族が徐々に死んでいく光景をまさに見ているのと、親族のこれからの死を想像するのとで、心境や覚受が同じでしょうか?親族の死を想像することは、たとえ誰もが将来必ず死ぬとはいえ、畢竟、親族は今なお生きています。直に見ている死と、心境や覚受が同じでしょうか?

多くの人々が学んだ如来蔵の理論に基づき、学んだ如来蔵の種々の機能作用や体性に基づいて、如来蔵とはまさにどこそこにある、ある界、ある根、ある法において、ある種の機能作用を起こしていると推測し、そして自分は如来蔵を親証し、悟りを開き心を明らかにして聖人になったと思い込んでいます。この誤解は実に大きく、その結果もまた甚大です。あたかも貧しく卑しい者が、自分が帝王になったと想像し、この想像の境界を真実だと思い込み、「自分は帝王だ」と言い、結果、真の帝王がそれを知って激怒し、兵を遣わして彼を捕らえ、斬首して晒し者にし、さらに九族皆殺しにするようなものです。如来蔵が何らかの作用を起こしていると想像し、そして自分は悟りを開いた聖人だと言うことの結果は、斬首晒しよりもはるかに深刻です。修行は慎重を期さざるを得ません。

大妄語の問題はどこにあるのでしょうか?それは現量と非量の区別がわかっていないこと、何が現量観察なのかを理解していないこと、推測・分析・思惟によって出された結論の実質が非量であって現量観察ではないことを理解していないことにあります。現量と非量を区別できない、この問題は非常に深刻です。多くの人々は、自分が導き出した結論が推測や推定によるものであり、直に見た現量見などでは全くないことを自覚していません。そのため、自分でいくつかの結論を導き出した時、自分は現量で証したと思い込んでしまうのです。実際には全くそうではなく、それは非量の想像と推測・推理に過ぎません。特に禅定のない者は、皆、意識の推論作用です。たとえ禅定があっても浅い者も、意識の推論作用があります。たとえ禅定が深い者でも、思惟している時がちょうど甚深の禅定中でなく、意識の思惟を用いた場合、これもまた意識の推論作用です。したがって、禅定があるからといって必ずしも現量証とは限らないのです。


——生如法師の開示
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現量・比量・非量了別を運用する心所

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法住智は過去と未来を了知するが、これは現量知なのか、比量知および非量知なのか?

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