衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年11月13日    水曜日     第1開示 合計4282開示

現量・比量・非量了別を運用する心所

三種の了別において、五十一個の心所法は必ずしも特定のものを使う必要はなく、具体的な状況に応じて分析すべきである。状況が異なれば使われる心所法も異なり、人によって様々な理由で用いる心所法に差がある。同じ人物であっても、時間や場面、異なる身体状態や心理状態、知識レベルや智慧の水準によって運用する心所法は同じではない。五遍行心所法はすべて用いられるが、五別境心所法は必ずしも全て使われるわけではなく、善十一心所法も現れるとは限らず、根本煩悩や大・中・小随煩悩心所法も必ず現れるとは言えず、すべて状況次第である。

現量了別には十分なデータが必要であり、それには深い智慧が求められる。勝解心所法が非常に強くなければならず、定心所法が現前し、念心所法が具足していて、心の念いが間断なく続く状態を実現しなければならない。比量了別は比較的智慧が浅く、必ず比較を経る必要がある。比較せず参照するものがないと理解できず、相対する縁がなければ着手する場所もない。一方で現量了別は比較せず直接に理解する、あるいは即座に把握するもので、根が鋭いと言える。非量了別は全く証拠が見つからない場合、十分なデータもなく比較対象もない状況で、想像や推測、推理などの手段を用いざるを得ない。使う方法が多ければ多いほど智慧が限られており、勝解力が弱いことを示し、当然ながら定力や念力も不足しているため、直接に判断を下せず、結論を導き出せない。

比量は、一人の力では物事を成し遂げられず、誰かの助けを借りなければどうにもならないようなものだ。非量は助けてくれる人すら見つからず、一人で右往左往せざるを得ない状態である。偶然うまくいくこともあるかもしれないが、たとえうまくいったとしても智慧は不足しており、現量には属さない。まるで他人が今どんな服を着ているか見えず、対照するものもないため、想像や推測をせざるを得ないようなものだ。たとえ推測が当たったとしても、直接見たわけではない。

智慧が不足している者が、他人を一步步修証へ導いて現量見道を求める方法を知らないのに、それでも導こうとする場合、消去法を取ることがある。例えば、ここに五本の道が城外の五つの地域へ通じており、そのうち一本だけが北京へ通じているとする。彼は正しい選択の仕方を教えることができず、消去法を取る。まず最初の道を指さすと、相手はためらいながら指をさして確信が持てない。すると彼は目配せで「違う」と暗示し、次に二番目の道を選ぶ。相手はまた彼の顔色を見て「これも違う」と感じ、こうして二番目の道を除外する。このようにして四本の道をすべて却下し、最後の一本だけが残る。相手が「この道だ、この道が北京へ通じている」と言うと、この人物は「それは君が言ったことであって、私が教えたわけではない。見道したことを恭喜する」と言う。さあ、これで見道と言えるだろうか?このような見道からどんな智慧が生まれるというのか?人を陥れる者、人を誤らせる者、まさにこのような人間である。騙すことに全く躊躇せず、相手も騙されて喜んでいる。愚かな者一対である!


——生如法師の開示
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現量と非量の重大問題

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