琴の調べは悠揚として雅やかで耳に心地よいが、牛は愚かであるため最初は理解できず、ましてや鑑賞などできない。意根というこの牛は無明が重く、無始劫より生死輪廻の中でほとんどの時間を苦報を受けながら過ごし、世間や出世間の真諦を薫習する機縁がなかったため、解脱の理を悟ることはついになかった。仏法がこのように妙なるものであっても、意根は気付かずその義も解せず、まして解脱の法を求めようともしない。意識が意根を薫染することは、牛に対して琴を弾くようなものなのである。
この時、意識は自らの演奏技術を訓練し、忍耐強く長期にわたって奏で続けなければならない。やがてある日、意根の牛はその韻味を理解する時が来る。意識が強化すべき訓練の工夫とは、いかなる曲調を奏でようとも意根の牛が必ず理解できるようにすることであり、これは容易ならざることで、並々ならぬ修練を要する。牛が曲調を理解するに至れば後は順調で、修行は風に帆を揚げたように進展するのである。
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