衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年11月08日    金曜日     第1開示 合計4280開示

念仏三昧とは意根の念仏修行である

念仏の声が無意識に心に浮かぶのは、いかにして生じるのか。いったい誰が念仏しているのか。無意識に現れる念仏の声は、すべて意根(マナス)から発せられるものであり、意根が念仏しているのである。最初は意識が気づかないが、気づいた後は制御できず、否応なく念仏の声に耳を傾けざるを得なくなる。自覚的な念仏は意識自身の覚(自覚)であるが、無意識の念仏は意識の覚ではなく、意根の覚であり、意根の行為である。この種の念仏三昧は禅定の境地であり、この定(サマーディ)は比較的堅固である。この三昧の境地を借りて、さらに四念処を観行するとき、心も清浄であり、観行が容易である。

無意識に念仏の声が現れ、しかも絶え間なく心の中や頭の中に漂い続ける、これが念仏三昧である。あらゆる三昧は意根から発せられる。なぜ意根が三昧を引き起こすことができるのか。念仏の功夫(修行の深さ)が熟達していない者には念仏三昧は現れず、さまざまな観行の功夫が不足している者にも三昧の境地は現れない。いわゆる功夫の熟達とは、長期間にわたって一つの修行を堅持することにより、意根に成功して染み込ませ、意根が染まって成就すると、自動的に自覚的に念仏と観行を行い、さまざまな三昧が現れることを指す。さまざまな三昧の出現は、意識によって決定されるものではなく、意識の制御を受けない。意識は受動的に受け入れるのみであり、受動的に三昧の境地に溶け込み、三昧と身心の覚受を体得するのである。

——生如法師の開示
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意識は意根を効果的に熏習し転換すべき

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