衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年11月05日    火曜日     第1 回の開示 合計4279回の開示

意識は意根を効果的に薫習し転換すべきです

多くの人が境遇に直面した際、無意識のうちに喜怒哀楽の感情を表し、後になって気付いて「喜怒哀楽はあらかじめ決められていたものだ」「自分ではどうにもならない」と言います。実はこれら全ては意根の煩悩習気であり、意根の自然な反応が六識を通じて表出したものなのです。感情が顕現した後、意識が覚醒して明らかになり、初めて自分に喜怒哀楽が生じていたことに気付きます。意識がこれを発見すると、あたかも自分でコントロールできないかのように感じ、やむを得ず「これらの感情は最初から定められていた」と説明するのです。もし意識の覚醒度がより高く、定力が強く、観察力が優れていれば、意根の一部の感情や心理状態を観察でき、ある程度感情を制御することも可能です。特に平常時から自己教育を重ね、それによって意根を薫染し、意根に存在すべきでない煩悩習気を改めるべきです。

意識の思想情緒も正しくない人々は、自己教育する能力がなく、効果的な心理構築ができないため、「意識がどれだけ騒いでも意根の習慣の輪から出られない」と言い訳します。もし意識がどう騒いでも意根の習慣の輪から脱出できないなら、修行に何の意味があるでしょうか。修行とはまさに意識を使って意根を変えることであり、意識が真剣に奮闘すれば、意根は意識に順応せざるを得なくなり、修行は正道に乗るのです。

意根の様々な心行や思想情緒が、種々の身口意行を引き起こします。清浄で善なる身口意行を実現したいなら、意識の能动性と指導作用を十分に発揮し、積極的に意根を善へ導き、清浄な身口意行と福徳ある身口意行を作り出さねばなりません。もし意根の習性が強すぎる場合、意識は悪と知りながら改められず、まるで毒癮が発作を起こしたように、自らを害すると知りながら依然として毒を摂取するがごとくなります。衆生の煩悩が重い時、煩悩であると知り、煩悩に過失があると知りながら、依然として煩悩が止まないのです。これは初心者の修行者の状態であり、修行の道はまだ長いと言えます。

——生如法師の開示
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