衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年11月03日    日曜日     第1 回の開示 合計4278回の開示

意根が受ける熏習の程度には深浅の差があります

問:ある知見を聞き、ある法を学んだ場合、例えば五蘊は虚妄であり、無常・空・無我であると、心が実際に生活中で変化し、仕事や生活の大きな方向性を調整したり、以前貪愛していたものに対する執着が薄れ、淡泊に感じられるようになった場合、これは意根の転換と言えるでしょうか。

答:これは三十七道品の修行段階における変化であり、修行が比較的効果を現している状態です。一つには熏習を受けたことで、心が転換し始め、八正道の道筋に沿って、粗重な貪りの煩悩を降伏させたのです。身心世界が変化したということは、つまり意根が熏習を受けて転換したことを意味します。つまり修行のどの段階においても、意根が熏習を受けさえすれば、修行は効果を現すのです。三十七道品も意根にまで修めなければならず、そうでなければ偽りの修行であり、まだ道に入っていないことになります。ただしこの種の身心の変化だけでは、脱胎換骨するほどの転換には至らず、我見を断ずる境地には達しません。そのため我見を断じたと自称する多くの者が、我見を断じた後も身心の各方面で顕著な改善や変化が見られず、骨格が変わらない限り、凡夫の胎を聖人の胎に換えることはできないのです。

証果に至る前には、仏法は必ず意根にまで熏習されなければなりません。意根が善法の熏習を受ければ変化が生じ、身心も変化します。証果の瞬間においては特にそうであり、それが三昧力と呼ばれるものです。仏法を学ぶ過程で意根に熏習が及ばず、ただ意識が知識を吸収し理解するだけならば、意根は従来通り変わることなく、身心世界の転換も起こりません。そうなれば我見を断じ証果を得ることは遥かに遠のきます。

証果前に意根を熏習したとしても、一定の程度に達しなければ、我見を断じ証果を得ることはできません。故に身心の転換、身口意の行いの転換、我見を断じ明心見性することは、全て意根を相当程度にまで熏染させなければならず、意根が少しだけ変化しただけでは不十分です。脱胎換骨するには、意根を徹底的に転換させ、意根の煩悩による汚染心を除去し、欲界の五品思惑煩悩を断じ切らねばなりません。こうして業種が第八識に蓄積され、来世において人天善道に生まれ、三悪道に堕ちないことが保証されるのです。なお意識で証果を得ようとする頑固な態度を抱き、意根による証果の観念に抵抗し、頑なに改めようとせず、強情を張り続ける者たちは、まことに救い難いと言わざるを得ません。


——生如法師の開示
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