衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年11月01日    金曜日     第1 回の開示 合計4277回の開示

意根熏習後の覚受

問:弟子が色身の苦・空・無常・無我を思惟し、己れと他人を観察するに、生老病死や日常の営みは全て自己の意のままにならず、平常歩行時には思惟が浅く、静座して思惟を深める時、身心に喜びの覚受が生じ、新たな境地に入ったかの如く、この感覚を殊の外好んでおります。この覚受は意根が少し薫習されたのでしょうか。

答:これは七覚分中の喜覚分であり、まさに仏法薫習の過程における良い現象であります。意根が薫習されてこそ喜覚分が現れ、歓喜があってこそ長久の修行を堅持でき、その後には倚覚分が現れます。心より発する歓喜は全て意根の薫習によるもので、色身と意識心に表れます。意根が薫習されるからこそ身心に種々の変化が生じ、苦楽の覚受及び不苦不楽の覚受が現れます。意根に新たな認知が生じ、思想観念が転換すれば、身心の転化を促すのです。常に五蘊無我その他の仏理を思惟観察すれば、意根と身心の変化は次第に大きく多くなり、量変から質変へと至り、脱胎換骨し、鯉が竜門を登るが如く、凡夫から聖者へと転じるのです。


——生如法師の開示
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