問:弟子が色身の苦・空・無常・無我を思惟し、己れを思ひ他人を量るに、生老病死・飲食排便、身に由らず己れに由らず。平常歩行時の思惟は深からず、静坐して思惟する時、身心に喜悅の覚受が生じ、恰も新たな天地に入り、身心が別の境界に入りたるが如く、この感覚を甚だ好む。この覚受は意根が少し薫習されたものでしょうか。
答:これは七覚分中の喜覚分なり、正に仏法薫習の過程における善き現象なり。意根が薫習されてこそ喜覚分現前す。喜悅あればこそ長久の修行を堅持し、後に倚覚分が現前す。心より発する喜悅は皆意根の薫習より来たり、色身と意識心に顕現す。意根が薫習されるが故に身心に種々の変化生じ、苦楽の覚受及び不苦不楽の覚受を含む。意根に新たな認知が生じ、思想観念が転換すれば、身心の転換を促すなり。常に五陰無我その他の仏理を思惟観察すれば、意根と身心の変化は益々大きく多くなり、遂に量変から質変へ、脱胎換骨し、鯉が竜門を跳ねて凡夫より聖者へ転ずるなり。
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