自証自証分とは、識心自身およびその心所法を反照するものであり、「自身」とは意識が意識を了別し、意根が意根を了別し、五識が五識を了別することを指し、相互に了別する意味ではない。自証分とは識心が相分の境界を了別することを指し、この相分は一切法を含み、当然第八識及びその心所法も含まれる。これは了別する智慧の如何による。夢とは夢境を指し、相分である。知とは識心の見分であり、識心が塵境を了別するのは見分が相分を了別する自証分であって自証自証分ではない。見分が自己を見るのが自証自証分である。見分と相分が結合して初めて自証分と自証自証分が生じ、自証自証分は実は自証分の一種であるが、相分が識心自身に転じ、自己及び心所法が相分となったものである。
夢境の相分を了別する見分は第六・七識の見分であり、六識は独頭意識である。一切の境界を見るのは主に第六・七識の見分によるが、衆生が感じ観察できるのは意識の見分のみで、第七識の見分を体察することはできない。今は意識の見分について述べよう。睡眠中に夢を見る時、なぜ独頭意識は夢中にあると知らないのか。それは夢中では意識が昏沈して清明でなく、睡眠自体が蓋障となり、意識の智慧認知を遮蔽しているからである。
睡眠の蓋障を除き、遮蔽がなくなれば意識は清明となり、初禅定を得る。あるいは禅定が深まるにつれ睡眠は次第に減少し浅くなり、夢中でも意識が清明となり、自らが夢を見ていることを明瞭に知り、夢中でも悪業を造らず善業をなすことさえできる。故に夢中に夢を知ることは第六・七識に定慧が備わり、睡眠の蓋障が軽微であることを示す。夢中に夢を知らぬのは第六・七識の識性が睡眠に覆われ、心が清明でないためである。
夢中の知見は独頭意識の見分であり、意根が意識の見分に与える影響は大きいが、ここでは具体的な影響には触れない。夢中の独頭意識が了別する境界は限定的で、五識を伴う五俱意識のように全面的かつ明晰ではない。夢中に夢を知らぬのは独頭意識の自証分の機能が不十分で智慧力が弱く、これは色身と意根に関係する。意識の了別機能の強弱は、意識自身の定慧のみならず意根の定慧や色身にも関係し、色身と意根を離れて意識の機能を論じることはできない。
なぜ色身と関係するのか。覚醒時の意識の了知が色身の影響を受けることは周知の理である。睡眠中は意根が境界を了別することを欲せず、六識は全て生起しない。夢中では独頭意識が強制的に生起して夢境を了別するが、神経系の活動が緩慢なため意識の思惟は抑制され、認知智慧が低く対境が夢境であると弁別できず、夢境を現実と錯覚する。これは酩酊時の状況と同様に、神経系の不活発さによるものである。
夢中で意識に自証自証分が存在するならば、それは意識が自己及び心所法を了知する反照力であり、意識が塵境を了知するよりも強い定慧を要し、より困難である。夢中で意識の自証分機能が不十分であれば自証自証分の機能はほとんどなく、自己を証知せず反照できない。ただし禅定に優れ覚性が強く四禅八定を具えた者は夢中の反照力が向上するが、禅定が深い者はほとんど夢を見ない。
意識の諸機能の強弱は、単に意識自身の定慧の問題ではなく、より根本的に意根と関係する。古今を通じこの問題を認識観察し得た者はほとんどいないが、意識の機能作用は確かに意根から切り離せず、両者は相補的関係にある。意根を離れて意識を論ずることは本末を転倒させることである。
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