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煩悩无尽誓願断
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日常法話

2024年10月12日    土曜日     第1開示 合計4267開示

なぜ夢の中では夢と知らないのか

夢の中で夢だと知るのは誰の知なのか?目覚めている時に塵境を知るのは誰の知なのか?夢の中でも夢の外でも、第六識と第七識には知があり、一切の法を知るのは第六・第七識の知を主とします。第五識は現実の五塵境を知ることはできますが、夢中の境を知ることはできません。なぜなら夢の中には五塵境が存在しないからです。意識の知性は色身と深い関係があり、色身に障害があると、意識の知は弱まるか断滅します。四禅八定を得た者は色身に障害がなく、意識の知は清らかで広大です。眠っているか否かにかかわらず常に清明に知ることができ、どれほど酒を飲んでも酔うことはありません。酒はもはや大脳中枢神経系を麻痺させることができず、したがって意識は影響を受けません。

意識の知はまた意根の知とも深く関わっています。一般的に、意根は一切の法を知りますが、ただしそれが如実に知られるかどうかが問題です。意根が如実に知るこの部分を、いかにして意識にも知らせ、かつ知られたことを適時に処理させるかは、二つの識の間のコミュニケーション能力に関わります。いわゆるコミュニケーション能力とは智慧であり、意識が知ったことをいかに効果的に意根に影響を与え導くかも、コミュニケーション能力、すなわち智慧のありように関わります。智慧はまた禅定と密接に関連し、禅定は心を静かで平穏、沈着にさせ、思考能力を増強し、智慧の力を大きくします。そうすることで二つの識が互いに及ぼす影響力は大きくなります。禅定はまた色身を無礙にし、色身が無礙であれば意識に障害がなく、知ることは敏捷で通達し、効果的に意根に影響を与えることができます。逆に、意根もまた効果的に意識に影響を与え、二者は互いに有無相通じ、一切の法を知ることが円滑で障害が少なくなります。

醒夢一如は修行によって得られる智慧の境界であり、夢であると知り夢境に囚われないことが智慧です。この修行は主に禅定の修行を指し、禅定は欠かせない修行の環節です。禅定があって初めて智慧が開発され、第六・第七識の知がより如実に、より真実に、より細かく、より広大になります。そして睡眠蓋を取り除いてこそ深い禅定が発起され、禅定が深い者は、目覚めている時は思惟が明晰であり、夢の中でも倒錯せず、目覚めている時と同じく、境界を了知することに障害がありません。

普通の人の知にはすべて障害があり、俗にいう神通がない状態です。一方、神通を持つ者の知には障害がなく、他心通・天眼通などがあります。これは定慧の功徳果報であり、夢中で夢であると知ることは、禅定が非常に優れた者が心清浄を得た果報です。済公和尚は四禅八定を得て神通を持ち、どれほど酒を飲んでも彼の神経系は影響を受けず麻痺せず、彼の意識は常に清醒であり、一切の境界を如実に観察し知ることができました。普通の人は眠った後意識が滅し、意根が意識に依って境界を了知するこの部分の機能は働かなくなります。したがって夢を見ている時、意根の弁別力は微弱で夢であると知らず、夢中の独頭意識の弁別力も非常に微弱で、やはり夢であると知りません。しかし修行を積んだ者は、禅定力が強く色身が無礙で第六・第七識が清明であるため弁別力が強く、夢を見ている時に夢であると知り、迷うことがありません。

窺基大師は四禅八定を得て神通を持ち、夜眠っている時も非常に清明で、普通の人が目覚めている時よりも清明でした。第六・第七識が鋭敏で、眠った後で一匹の虱の足が落ちて痛くて鳴く声さえも、窺基大師は聞くことができました。これは禅定力と神通力の功徳です。眠っている時に虱の鳴き声が聞こえるということは、彼が眠っていなかったことを示すのでしょうか?普通の人にとって睡眠は一種の蓋であり、その心を遮蔽して見えず聞こえず、あたかも死人のようにさせます。しかし睡眠蓋を滅した者は、ごくわずかな睡眠で色身を滋養するのに十分であり、禅定は初禅以上に達します。その心は清明で遮蔽障害は軽微、あるいは全くなく、睡眠時には必ずしも意識が完全に断絶しているわけではありませんが、睡眠も充足しています。これは普通の人とは異なります。

特に神通を持つ者は、その睡眠は目覚めている時と同様であり、普通の人が目覚めている時よりもなお清明です。古くに武術に長けた者も睡眠は浅く警戒心が高かったのですが、この警戒心は意識によるものと言えます。しかし意根にも確かに警戒心があり、その警戒は意識の機能作用よりもなお強いため、意根を離れては意識の機能作用を明らかに説明できません。睡眠と昏沈は同類であり、ともに蓋障に属し、識心の光明を遮蔽することができます。睡眠蓋障が消除されて初めて、初禅定が現れます。眠るほどに昏沈が強いほど、禅定の功夫が良くないか、あるいは禅定がなく蓋障が重いことを示します。夢中で迷いが深いほど、禅定がありません。酒に酔いやすいほど、色身の障害が大きく、禅定がありません。禅定の功夫が深い者は色身を調理して環境要因の影響を受けず、六識の機能作用の発揮を妨げません。したがって定力は非常に重要であり、たとえ仏法を学んで修行しなくとも、禅定をよく修めれば受用も非常に大きいのです。

——生如法師の開示
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夢中に夢を知ることは意識の証自証分か、それとも自証分か

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酒品と人品は意根の品質です

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