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日常法話

2024年10月10日    木曜日     第1開示 合計4266開示

夢中に夢を知ることは意識の証自証分か、それとも自証分か

自証自証分とは、識心自身および自身の心所法を反照するものである。「自身」とは、意識が意識を了別し、意根が意根を了別し、五識が五識を了別することを意味し、互いに了別するという意味ではない。自証分とは、識心が相分の境界を了別することであり、この相分には一切の法が含まれる。当然、第八識およびその心所法も含まれており、了別する智慧の程度による。夢とは夢境を指し、相分である。「知」は識心の見分であり、識心が塵境を了別するのは、見分が相分を了別する自証分であって、自証自証分ではない。見分が自らを見るのが自証自証分である。見分と相分が結合して初めて自証分と自証自証分が生じる。自証自証分は実は自証分の一種であるが、相分が識心自身に変わり、自己および心所法が相分となったものである。

夢境の相分を了別する見分は第六識・第七識の見分であり、かつ第六識は独頭意識である。一切の境界を見るのは主に第六・第七識の見分によるが、衆生が感じ取ったり観察できるのは意識の見分のみであり、第七識の見分は体察できない。ここでは意識の見分について述べよう。眠って夢を見ている時、なぜ独頭意識は夢を見ていると自覚しないのか。それは夢中で意識が昏沈して清明でなく、睡眠そのものが一種の蓋障(妨げ)であり、意識の智慧的な認知を遮蔽しているからである。

睡眠の蓋障を除き、遮蔽がなくなると、意識が清明となり、初禅定を得る。あるいは禅定が深まるにつれ、睡眠は次第に減り浅くなり、夢中の意識はますます清明となる。その結果、自らが夢を見ていることを明確に知り、夢中でも悪業を造らず、善業さえ行えるようになる。ゆえに夢中で夢と知ることは、第六・第七識に定慧が備わっていることを示し、睡眠の蓋障が軽微である。夢中で夢と知らないのは、第六・第七識の識性が睡眠に覆われ、心が清明でないためである。

夢中の知見は独頭意識の見分である。意根は意識の見分に大きな影響を与えるが、ここでは具体的な影響については触れない。夢中の独頭意識の了別能力は限られており、五識の補助を得て了別する五俱意識ほど全面的かつ明晰ではない。夢中で夢と知らないのは、独頭意識の自証分の機能が十分でなく、智慧力が弱いためであり、これは色身(肉体)と意根に関係する。意識のすべての了別機能の強弱は、意識自身の定慧だけでなく、意根の定慧や色身にも関わり、色身や意根を離れて意識の機能を論じることはできない。

なぜ色身と関係するのか。覚醒時の意識の了知が色身の影響を受けることは周知の理である。睡眠中は意根が境界を了別しようとせず、六識はすべて生起しない。夢を見ている時、独頭意識は強制的に生起して夢境を了別するが、神経系の活動が全般的に緩慢なため、意識の思惟は抑制され、認知的智慧が比較的低く、向き合う境界が夢境であると弁別できない。そのため夢境を現実と見做してしまう。これは酩酊時の状況と同じく、神経系の不活発さによるものである。

夢中で意識に自証自証分があるならば、それは意識が自らおよび心所法を了知できることを意味し、これは反照力である。これは意識が塵境を了知するのに必要な定慧よりも強く、難度も高い。夢中で意識の自証分の機能が不十分であれば、自証自証分の機能はほとんどなく、自らを証知しないため反照できない。ただし禅定が極めて優れた者、覚悟の強い者、四禅八定を得た者は夢中の反照力がより良好である。しかし禅定の深い者はほとんど夢を見ない。

意識の幾つかの機能作用の強弱は、単に意識自身の定慧の問題ではなく、さらに意根と深く関わっている。古来よりこの問題を認識・観察できた者はほとんどいないが、意識の機能作用は確かに意根から切り離せず、両者は相互に補完し合っている。意根を離れて意識を論ずるのは、本末を転倒させることである。

——生如法師の開示
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