七覚分の最初は念覚分で、ある法を学んだ後に、その法を理解し、認識し、記憶することを意味します。法が心に入り、心に法を持つようになれば、普段からその法を憶持し、思い起こし、思考することができ、境遇に応じて法を如実に観察できるようになります。これが法を証得する前提です。中間の一環でも欠けると、念覚分も七覚分も円満ではなく、法を証得することはできません。法が心に入って憶持できるようになれば、毎日書物から離れずに学ぶ必要はなく、そうでなければ念覚分は生起しません。では仏道修行のどの段階で念覚分が生じるのでしょうか。
どのような人々が法を学んだ後、どうしても心に入らず、覚えられず、思い出せず、書物に依存しなければ法を理解できず、書物に説かれた法を思惟できないのでしょうか。念覚分がまだ生起していない人々は法に対し印象も関心も持たず、まさにそのような状態で、念力が非常に弱いのです。関心を高め、法の重要性を知った後で初めて、心に時折法を念じることができるようになります。
例えば小乗の五蘊無我を学んだ後、書物を見れば色声香味触法の六塵がすべて空で仮のものであると分かりますが、書物から離れて六塵の境界に遭遇すると、色塵に対し依然として非常に選り好みし、強く執着し、最良のものを求め、少しも苦痛を受けたくないと考えます。音声を聞いても非常に選り好みし、香りの匂いにも強く執着し、触法に遭遇しても同様に、完全に「六塵は虚妄であり得られない」という先ほど読んだ言葉を忘れてしまいます。これらの現象は、この者が六塵の空仮という法を心に留めておらず、憶持性がなく、思考観察できないことを示しています。念覚分がまだ生起していないならば、いつ六塵の無常無我を証得できるのでしょうか。その時期は定められず、果てしない年月を要するかもしれません。
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