衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年08月05日    月曜日     第1開示 合計4230開示

念覚分を生起することは証法の前提条件である

七覚分の最初は念覚分です。ある法を学んだ後、その法を了解し、その法を認識し、かつその法を記憶することを意味します。法が心に入った後、心の中にその法があり、普段からその法を憶持することができ、その法を思い、その法について思考し、境に遇えばその法を如実に観察することができます。これが法を証得する前提です。途中の環節・段階が一つでも欠ければ、念覚分も七覚分も円満ではなく、法を証することはできません。そして法が心に入って憶持できるようになった後は、毎日本を離さずにその法を学ぶ必要はなくなります。さもなければ、まだ念覚分が生起していないことになります。では、学仏修行のどの段階で念覚分が生じるのでしょうか。

どのような人が、法を学び終えた後、どのように学んでも心に入らず、覚えられず、思い出せず、本に頼らなければ法を了解できず、本に書かれている法について思惟することしかできないのでしょうか。まだ念覚分が生起していない人は、法に対してあまり印象も興味も持てず、このように、念力が非常に劣っているのです。興味を高めてこそ、法の重要性を知ってこそ、初めて心の中で時折法を念ずることができるようになります。

たとえば、小乗法の五陰無我を学び終えた後、本を見ながらなら、色声香味触法の六塵はすべて空で、仮のもので、真実ではないと分かります。しかし本を離れて振り返ると六塵の境界に遇い、色塵を見れば依然として非常にえり好みをし、非常にこだわり、最良のものを求め、自分が少しでも辛い思いをすることを望みません。声を聞いても非常にえり好みをし、非常にこだわります。匂いを嗅いでも、非常にえり好みをし、香りや臭いに非常に執着します。触法に遇っても同様に、非常にえり好みをして執着し、ついさっき自分が「六塵は虚妄であって得るものではない」という言葉を読んでいたことを完全に忘れてしまいます。これらの現象は、この人の六塵が空で仮のものであるという法が心に入っておらず、憶持性がなく、思考観察ができず、念覚分がまだ生起していないことを示しています。では、いつになったら六塵が無常無我であることを証得できるのでしょうか。期日はなく、あるいは嘘の年、あるいは嘘の月かもしれません。

——生如法師の開示
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意識の知を知と為すことこそ無明(avidyā)である

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意識のないとき、意根は知があるか

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