衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2024年08月08日    木曜日     第1 回の開示 合計4231回の開示

意識がないとき、意根に知覚はあるでしょうか

ある者が問う:意根もまた識であるならば、外界を感知すべきではないか。人が昏迷状態にある時、なぜ外界を全く感知しないのか。この問題は次の通りである。昏迷時に感知がないのは意識が感知していないのであり、意根は依然として感知を有している。意根が感知する際、意識が一旦滅すれば、意根の感知を知ることができず、仮に意識が滅しなくとも、認知する智慧がなければ依然として意根の感知作用を知ることができない。これは意根の知が意識に知らしめて初めて衆生が知ることができるためである。衆生は全て意識心の知を以て知とし、意識が知らざるものは知らざるものと見做すのである。

しかし意識が知らないからといって、意根もまた知らないとは限らない。故に睡眠中に夢が無い時や昏迷時、意識が消失する時、意根の知は意識に伝達されず、意識は知ることができず、意識が知らなければ衆生は知ることができない。仮に意識が正常に運行して消失しなくとも、智慧が無い時は意根の知を知ることができない。意識に智慧が無い時、意根が如何なる心行をなし、何を感知しているか、意識はやはり知ることができない。故に意根に証自証分の反観があるか否かは意識では観察できず、意根が自我の存在を知っているか否かも意識では観察できない。従って意識が観察できない時は、意根が如何であるか否かについて判断を下すべきではない。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

念覚支を生起することは証法の前提条件です

次の記事 次の記事

覚観思惟と顕境名言の違い

ページのトップへ戻る