覚観は意識の覚観であり、思惟もまた意識の思惟である。意識にはさらに、文字と言語を通じて六塵の境界を顕現させる機能や作用がある。覚観から思惟が生じ、思惟から言語や文字が生まれ、言語や文字があれば境界を表現し示すことができる。しかし最初の覚観には言語や文字は存在せず、最も深く細やかな覚観にも言語や文字は存在しない。言語や文字を伴う思惟は比較的粗く表面的で、繊細さに欠ける。意識が言語や文字を離れ、覚観や思惟を営む状態と、意根の無文字無言語の状態とは極めて区別し難く、明暗が混ざり合い、ほとんどどちらがどちらか判別できないほどである。
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