衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2024年08月04日    日曜日     第1開示 合計4229開示

意識の知を知とするは、まさに無明であります。

各識の証自証分とはどういう意味でしょうか。各識が自証する相分について、その内容をおわかりでしょうか。例えば第八識には見分があり、それは能見の性質です。第八識の相分は第八識が見る相、例えば種子です。第八識の自証分は第八識自らが相分の種子を見て、それを了知し、弁別したことです。第八識の証自証分は第八識が自らの自証分を証明し、証得したこと、つまり自らが相分の種子を弁別したことを知り、自らが相分の種子に対する弁別を完了したことを知り、自らが相分の種子を弁別したことを知ることです。第八識自らが何をしたかは、それ自らがご存じであり、六七識にはわかりません。深い道種智がない限りは。

私たちは第八識が相分の種子を弁別したかどうかをご存じでしょうか。私たちは存じません。第八識は意識の知を代行しないので、意識が知らないからといって、他の識も知らないとは限りません。意識の不知をもって他の識の知に代えることはできません。第八識を甲とし、意識を乙とします。甲が知っている法を、乙は必ずしも知っているとは限らず、乙が知らないからといって、甲も知らないことにはなりません。甲の証自証分は乙の証自証分を代表せず、乙は甲が証得した相分を明らかに認識していなくても、甲が証得していないことにはならず、甲が知らないことにはなりません。また多くの意根の知は、意識も明らかに認識していません。認識していない以上、意根も知らないなどと言うべきではありません。

衆生の知は、大多数が意識の知を基準としています。意識が知らないことは、私は知らないと言い、ある事柄は発生していない、存在しないと言います。実際には第七識はある事柄が発生したことを知り、ある事柄を知っています。しかし第七識には言語文字の機能作用がなく、表現できず、意識に知らせることができません。そこで意識は、自らが知らないことは存在せず、他の識も同様に知らないと感じてしまいます。このように断定することは非常に独断的で、道理にかなっていません。

凡夫衆生の意識はどれほど独断的でしょうか。意識自らが意根を証得できず、観察できないため、意根の自証分や証自証分を認めようとしません。意根は自らに対して内省性を持ち、内省する能力があり、自らの弁別を内省できますが、意識はそれを知らず、観察できません。それにもかかわらず、意根には内省力がなく、証自証分もなく、ある種の自証分もないと言います。意識がこのように考えるとき、まさに意識自身の愚痴、無明、暗鈍さ、知っていることが少なすぎ浅すぎること、誤解が多すぎることを示しているのに、自らそれを自覚していません。仏は「慎んで汝の意を信ずることなかれ、汝の意は信ずべからず」と言われました。なぜでしょうか。無明が深重だからです。

——生如法師の開示
前へ前へ

意根と意識における思惟と知

次へ 次へ

念覚支を生起することは証法の前提条件です

ページトップへ戻る