衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年08月02日    金曜日     第1 回の開示 合計4228回の開示

意根と意識における思惟と知

意根も意識と同じく識であり、ともに思心所法を有し、思考・思索・思量が可能である。しかし大多数の人は意根の思を観察できないため、意根の思と意識の思に差異があると考え、意識の思を「思惟」、意根の思を「思量」と呼び、思惟は思量ではなく、思量は思惟ではないと認識する。もし意根が思惟思考すると言えば、それは誤りで意識の思惟思考だと主張する。意根の心理活動を指摘すれば、多くの人は否定し、それは意識の心理活動だと反論する。よって意根の心理活動を観察できないまま唯識を学び、内心で強固に執着する者は、大いに困惑することとなる。

なぜ多くの人が意根の思は深遠で隠微、観察困難だと説くのか。その原因は衆生が常に意識の知を以て知と為すためである。意識が知る所を以て衆生は知り、意識が知らざる所は知ることがない。もし意識の智慧が不足し、意根の心理活動を知らず、意根の知覚を理解しなければ、衆生は意根の心理活動を深遠・隠微・微妙と感じる。実は意識の無知を責めるべきである。意識に智慧が生じ、智慧に障礙なき時、意根の心理活動を眼前に観察できれば、意根を深遠難解とも隠微難知とも感じず、意根の心所法を誤解することもなくなる。

もし衆生が皆意根の知を以て知と為せば、いかなる状況が生じるか。意根の知らざる所は衆生も知ることがなく、意根が意識の知覚を理解しなければ、意識が如何なる法を知り、どれほど知ろうとも、意根は知らない。それ故、意識が学んだ理論は無用となり、意根が第八識を知らなければ悟りを開くのは更に困難となる。この時衆生は言うであろう「意識の心理活動は深細にして窺い難く、第八識は更に深遠隠微で行相微細なり」と。

実際に諸法が隠微か顕白かは、識の智慧によるのであって、法自体の性質ではない。智慧ある時は如何なる法も顕白で理解容易となり、智慧なき時は如何に顕白な法も深遠隠微に感じられる。故に第六・七識が転識得智すれば、意識は意根の心行と第八識の心行を眼前に観察でき、何ら困難を覚えない。仏が一切法を観察するのは極めて容易で、観察せずとも一切法を知り、全ての法を了然とされる。

もし衆生が意根の知を以て知と為せば、神通力を得て互いの秘密はなくなり、前世後世を了然とする。これにより因果を知り、悪報を減らすため悪業を造ることも減るであろう。しかし我執の強い者は、悪業によって苦を受けると明知しながらも悪業を繰り返し、刑務所に出入りする者が悔い改めぬ如くである。意根は意識の明確な導きがなければ単純幼稚で情執が強まり、我性が増大し、意識による制御が困難となる。これにより悪業を造る確率は高まり、我見を断つのは更に困難となる。

もし衆生が皆第八識の知を以て知と為すならば、如何なる状況か。第八識は世間法を知見せず、人我他她を識別せず、色を見ず声を聞かず、六塵境界を知らない。この状態では衆生は生存できず、六根が閉じて涅槃の境に入る。これを良しとするか。菩薩が衆生を度すことができないと言う者もあろうが、この時既に涅槃に入らぬ衆生が何処に存在し、仏菩薩の教化を必要としようか。もし衆生が皆第八識の知を以て知と為すならば、仏法を学ぶ必要もなく、仏と衆生の区別も消滅する。

もし衆生が五識の知を以て知と為すならば、生存不可能となり五蘊世間は機能しなくなる。五識は粗重なる五塵のみを了別し、微細なる五塵を識別せず、更に心法・意識・意根・第八識を知らない。粗重なる五塵境外は全く知らない。もし意識さえ知らなければ、如何にして五塵の粗境を知り得ようか。五識は意識と協働して初めて五塵の粗相を了別できるが、五塵の細相も法塵も心法も知らぬ者に生存は不可能である。要するに、一切法を知るには、如何なる識を主としようとも大智慧を具え、転識得智して智識を以て初めて一切法を知り得るのである。

——生如法師の開示
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