衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年07月31日    水曜日     第1開示 合計4227開示

黙念と知念におけるいずれも、どのような心の行為なのでしょうか

呪文を唱える際、声に出そうと黙念しようと、それは独頭意識が唱えているのであり、意根の念には言語文字はない。黙念を知る「知」は意識の反観力であり、意識の反観力とは証自証分(しょうじしょうぶん)である。つまり独頭意識が自らを了別し反観することである。もちろん、非常に熟達すれば意根の念と知も生じる。意識が黙念する時、意根は知を有する。意識が反観する時、意根もまた知を有する。この知は深く秘められており、見難く察し難い。意根は独頭意識の反観作用も、呪文を黙念する機能も、全て自らの機能作用であると見做し、全てが自分自身が念じ知っていると認識する。

もし禅定が比較的良好であれば、意根もまた呪文を唱えることに参与し、意識がそれを観察できる。つまり意識と意根のそれぞれの機能境界が区別がつかず混同しやすい。禅定がある時は、一つには身心が分離し、はっきりと明らかで、結びつきがそれほど密接ではない。六識と七識もまたそれぞれ分離可能で、互いに距離を置いて初めて明らかとなり、各々の法に対して虚妄の感覚が生じる。もし禅定がなければ、諸法が絡み合って分離できず、はっきり見えないため、混ざり合った法が非常に真実で現実的に感じられ、執取性が強くなり煩悩が重くなる。禅定の利益は尽きることがなく、禅定がなければ修行があるなどと言ってはならない。

——生如法師の開示
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識と意根による同時の了別と動念

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意根と意識における思惟と知

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