一切法を了別する過程において、動念であれ不動念であれ、念頭が明瞭であるか否かを問わず、尋の状態にあろうと伺の状態にあろうと、意識による了別もあれば意根による了別もある。法を了別する限り、この二つの識は必ず同時に存在する。差異は、誰が明瞭に了別し、誰が不明瞭に了別するか、誰が顕著に了別し、誰が不顕著に了別するか、そして了別の主体がどちらにあるかという点にある。念頭が動くやいなや、この二つの識は必ず同時に現前する。意根は意識の俱有依であるから、意識が存在すれば必ず意根も存在する。意識の現起は意根の思量選択の結果であり、故に意識が動く時には必ず意根も既に動いている。もし意根の了別と動念が欠ければ、意識は現れない。
しかるに意根は無間断の識であり、常時存在し、運行し、攀縁し、執取を続けている。瞬時も念頭を動かさず、瞬時も思量を止めることがない。ただその動きが明瞭か否か、心が散乱しているか集中しているか、執着を有するか無執着か、意識がその存在と心の動きを認知し得るか否か、といった差異があるに過ぎない。
多くの者が意識を動念させず、かつ意根を観察できない時、自らが今清浄で何の念頭もないと錯覚する。実際この時意根には念頭があり、攀縁と思量が存在する。ただ意識に智慧の観照が無いだけである。いつ意根が決定を下すか分からず、そうなれば意識は静まらず、何らかの行為造作を開始せざるを得なくなる。身口意の一切の行動は大小軽重を問わず、全て意根の思量の結果である。意根が造作を為そうとする時、意識は清浄ではいられず、意根の考えに従って造作を為すことになる。
5
+1