衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年07月30日    火曜日     第1開示 合計4226開示

識と意根による同時の了別と動念

一切の法を了別する過程において、念を動かすか動かさないかにかかわらず、念が明らかであるか否かにかかわらず、尋の状態にあっても伺の状態にあっても、意識による了別もあれば、意根による了別もあります。法を了別する限り、この二つの識は必ず同時に存在しており、違いはどちらが明確に了別するか、どちらが不明確に了別するか、どちらが顕著に了別するか、どちらが不明瞭に了別するか、そして了別がどちらを主体とするかという点にあります。念がひとたび動けば、この二つの識は必ず共に同時に現れます。なぜなら、意根は意識の倶有依であり、意識が存在すれば必ず意根も存在するからです。意識の現起は意根の思択の結果であり、したがって意識が動くときには、意根は必ずすでに動いています。もし意根の了別や念の動きが欠ければ、意識は現れません。

一方、意根は間断のない識であり、常に存在し、常に運行し、縁り、執取しています。絶えず念を動かし、絶えず思惟しており、ただそれが顕著に動くか否か、心が散乱しているか集中しているか、執着があるかないか、意識がその存在や心の動きを発見できるかどうか、といった違いがあるだけです。

多くの人は、意識が念を動かさず、かつ意根を観察できないとき、自分は今とても清浄であり、何の念もないと思いがちです。しかし実際には、このとき意根には念があり、それは縁りと思量をしているのです。ただ意識にはそれを観察する智慧がないだけであり、いつ意根が決定を下すか分からず、そうなれば意識の側は静まっていられなくなり、何らかの行為や造作を始めることになります。身・口・意による一つ一つの行動は、大小を問わず、軽微なものも重大なものも、すべて意根の思量の結果です。意根が造作を行おうとするとき、意識は清浄ではいられず、意根の考えに従って造作を行うことになるのです。

——生如法師の開示
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黙念と知念におけるいずれも、どのような心の行為なのでしょうか

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