衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2024年07月27日    土曜日     第1開示 合計4225開示

意根と意識の活動の区別

もし意根が動けば、色身には様々な反応が現れます。例えば顔が赤くなり心臓がどきどきする、恥ずかしがる、あるいは青筋が立つ、全身が震えるなどです。意識だけが動いても、身体にはほとんど反応がなく、比較的平静です。口だけで行動しない人は、意識だけが動き、意根は動きません。言うこととやることが一致しない人は、意識では言いながらも、意根はやりたくないので実行しません。騙す習慣のある人は、皆意識を使って演技し、意根は全く動きません。ですから、人の品性を観察するには、その人の言動ではなく行動を見るべきであり、行動は言葉よりも確かなものです。

意根の活動には一定のエネルギー消費が必要ですが、意識の活動は必ずしもエネルギーを消費するわけではなく、あるいは消費量が比較的少ないです。意識活動がエネルギーを消費する場合でも、それは全身に関わります。なぜならエネルギーは全身の隅々に流れており、全身が同じエネルギーを使用しているからです。エネルギーは分かれていません。ただし、頭を使って思考するのが好きな人は、まず脳のエネルギーを消費し、脳のエネルギーが不足して初めて全身のエネルギーを消費します。脳は全身を引き連れ、脳が疲れると全身も疲労を感じ、休息が必要になります。

意識の活動の中には、意根の活動が全くないわけではなく、多少なりとも意根が関与するため、エネルギー消費が必要です。関与が多ければ多いほど、消費するエネルギーも多くなります。私が心を込めて問題を考えなければ、一日中静かに意識の表面的な活動だけをしていると、丸一日経っても疲れを感じず、あまり空腹も感じません。心を込めて問題を考えると、すぐに疲れを感じ、お腹も空きやすくなります。ですから私は人や物事に接することも、気を使うことも、重要でない問題を考えることも全く好みません。意義のある比較的重要なこと以外はです。

心を込めて参禅するときも多くのエネルギーを消費しますが、思考せずに定を修めているときは、あまりエネルギーを消費せず、むしろ身体は快適でリラックスした感覚になります。思考せずに定を修めるのは比較的楽で、観行して思考すると脳が疲れる可能性があります。意識を使って思考するときは、心の使い方が浅く少ないため、比較的速くて楽で、広く浅く話すことができ、流れるように滑らかで、次々と名言が出てきます。しかし内容は浅く、知識レベルや記憶力の発揮レベルが表れるだけで、知恵のレベルが表れることはほとんどありません。一方、意根を使って思考するときは、心の使い方が深いため、識心の働きは比較的遅くて疲れますが、内容は深く、意義は遠大で、その人の深層的な知恵が表れます。

比喩を使って意識と意根の使い方の違いを説明しましょう。例えば、人がぬかるみの中を歩くとき、泥が浅く靴底だけが埋まる程度なら、歩くのは比較的速くて楽です。もし泥が足首やふくらはぎ、あるいは膝まで浸かっていると、足を引き抜くのは容易ではなく、一歩歩くごとに非常に苦労し、歩くのは非常に遅くなります。意識による思考は泥が浅い道を歩くのに相当し、意根による思考は泥が深い道を歩くのに相当します。ですから、意根で問題を考える人は、常に意根の深い層にいるため、比較的集中しています。一つの考えを切り替えるたびに、一つの問題を転換するたびに、思考は非常に遅くなり、多くのエネルギーを消費し、少し疲れると感じるため、静けさを好み、外部の人や物事に邪魔されたくないと思うのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

法相への執着はすべて意根によるものである

次へ 次へ

識と意根による同時の了別と動念

ページトップへ戻る