衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年06月21日    金曜日     第1開示 合計4199開示

阿羅漢はなぜ「私は阿羅漢果を証得した」という念頭を持つことができないのか?

原文:须菩提。于意如何。阿罗汉能作是念。我得阿罗汉道不。不也。世尊。何以故。实无有法。名阿罗汉。世尊。若阿罗汉作是念。我得阿罗汉道。即为著我人众生寿者。

仏は須菩提に言われた:「あなたはこのことをどう見ますか。阿羅漢は『私は阿羅漢果を得た』というような念を持つことができるでしょうか。」須菩提は答えて言った:「阿羅漢はそのような念を持つことはできません、世尊。なぜそう言うのかというと、実際には阿羅漢と名づけられるいかなる法も存在しないからです。世尊、もし阿羅漢が心の中でこう思うなら――『私は阿羅漢果を証得した』と――、那么彼は我相・人相・衆生相・寿者相に執着することになります。そうなればもはや阿羅漢ではありません。」

いかなる人であっても、「私はどうこうになった」という心念を持ち、本当に自分という我がどうこうになったと考えるなら、我相に執着したことになり、他の三相も直ちに現れます。阿羅漢も同様で、自分が阿羅漢果を証得したと思い込むなら、心の中に我相があり、そこから人相・衆生相・寿者相も歴然と存在することになり、その人はもはや阿羅漢ではありません。この世の中には、実際には阿羅漢と呼ばれるいかなる法も存在しません。阿羅漢の色身と識心から構成される五蘊は生滅変異する幻化のものであり、実存の法ではなく、阿羅漢と呼ぶことはできません。阿羅漢果は単なる一つの状態と境地であって、実質のある果で得ることも見ることもできません。阿羅漢果を証得するということは幻化した生滅変異の法であり、これも実存の法ではありません。もし実存の法であるなら、恒常的に存在し、修めなくても恒常的に阿羅漢果を証得しているはずです。

だから阿羅漢には「私は阿羅漢果を証した」というような念がなく、阿羅漢果を証した後は、内心は空で寂静であり、四相のわずかな影すらありません。人の世を歩むのはまるで一つの躯殻のようで、いかなる是非紛争もありません。凡夫はこれとは正反対で、我見のために四相が乱れ立ち、常に煩悩と紛争の中にあります。我見が重い人ほど我相が重く、心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でないほど煩悩が重く、是非紛争が多くなります。逆ならば、それだけ清浄 (viśuddha/pariśuddha) で是非がありません。

小乗の初果から四果までの聖賢の人々はいずれも四相がなく、大乗の菩薩はなおのこと四相に執着しないはずです。同様に、「私は明心した」「私は見性した」「私は十住位・十行位・十回向位の菩薩になった」ということもなく、あちこちで「私は初地の菩薩だ」「私は二地の菩薩だ」「私は三地四地さらには八地の菩薩だ」と宣伝することもなく、ましてやあちこちで「私は某某の聖者の再臨だ」「私は某某の仏の再臨だ」と宣伝することはありません。菩薩の心は声聞の人々よりもさらに清浄 (viśuddha/pariśuddha) で、何しろ大乗小乗の空をいずれも証得しているのです。声聞の人は世俗の相の空しか証得しておらず、自性清浄心を証得していないので、世俗の空相・空法が何ゆえに空なのかを知らず、そのため空の証得がまだ十分に清浄 (viśuddha/pariśuddha) ではありません。菩薩はこのような不清浄で不如理な念を一切持たず、大々的に宣伝してそれによって人々を籠絡することもありません。実証の人の心は空で清浄 (viśuddha/pariśuddha) であり、いかなる法相にも執着しないので、私たちが敬い学ぶに値するものです。


——生如法師の開示
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三果阿那含はなぜ「私は三果の人である」という思いを持つことができないのか?

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須菩提はなぜ「我是離欲阿羅漢」というような念頭を持たなかったのか?

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