世尊。仏は私が無諍三昧を得て人中最も第一であると説かれました。私は第一の離欲阿羅漢です。しかし私は『私は離欲阿羅漢である』という念いを起こしません。世尊よ。もし私が『私は阿羅漢道を得た』という念いを起こすならば、世尊は須菩提を阿蘭那行を楽む行者とは説かれないでしょう。須菩提は実に何も行うところがなく、それゆえに須菩提を阿蘭那行を楽む行者と名付けるのです。
直訳:須菩提は阿羅漢に「私は阿羅漢である」という念いがないことを立証するため、仏に申し上げた。世尊よ、仏は私が無諍三昧を証得し、人中最も第一であると説かれました。私は第一の離欲阿羅漢です。しかし私は『私は離欲阿羅漢である』という念いを起こしません。もし私が『私は阿羅漢道を証得した』という念いを起こすならば、世尊は須菩提を静寂な行を喜ぶ行者とは説かれないでしょう。須菩提は心が空で何も行うところがないからこそ、須菩提を静寂行を喜ぶ行者と説かれるのです。
須菩提は別名を空生ともいい、常に世間の空寂を感知していました。無諍三昧を証得したため、決して世間の人々と争いません。世間の人が東と言えば東、南と言えば南、西と言えば西、北と言えば北に従います。世間の人の言うことは全て空であるため、優劣や長短を争う必要がないからです。須菩提は世間に対する欲望や考えがなく、心が空・無相・無願で、作為することなく、人中最も第一の離欲阿羅漢です。しかし須菩提は決して「私は離欲阿羅漢である」という念いを起こさず、自らを宣伝することもありません。彼は我相に執着せず、阿羅漢相にも執着しません。もしそうでなければ、相に執着する凡夫となり、世尊は須菩提を静寂行を喜ぶ行者とは説かれないでしょう。須菩提は心が常に空寂で無欲無求であるため、世尊は彼を静寂行を喜ぶ行者と称賛されるのです。
これに対し凡夫たちは須菩提とは正反対で、事実の有無にかかわらず、常に自らを誇示し宣伝することを好みます。人と優劣を争い、目立つことを好み、称賛や崇拝を求め、自己を顕示することに熱中します。要するに自己を世に知らしめ、自らの「我」を満足させることが凡夫の相です。凡夫は我相を離れると何もできず、常に我相・四相の中に生き、これが一生の精神的糧となります。一旦この「我」が抑圧されると、魚が水を失ったようになります。要するに、人が道を有するか否かは、行いによって明らかになります。身口意の行いがその人の思想境界と智慧の境地を最もよく表すのです。
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