衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年06月22日    土曜日     第1開示 合計4200開示

須菩提はなぜ「私は離欲阿羅漢である」という念がないのか

金剛経原文:世尊。仏は私が無諍三昧を得たと説かれました。人の中で最も第一であると。これは第一の離欲の阿羅漢です。私はこのような念いを起こしません。私は離欲の阿羅漢であるとは。世尊。もし私がこの念いを起こすならば。私は阿羅漢の道を得たと。世尊は須菩提は阿蘭那行を楽む行者であるとは説かれないでしょう。須菩提は実に行うところが無いゆえに。須菩提を阿蘭那行を楽む行者であると名づけるのです。

直訳は以下の通り:須菩提は阿羅漢に「私は阿羅漢である」という念いが無いことを立証するため、仏に申し上げた:世尊、仏は私が無諍三昧を証得したと説かれ、人の中で第一であり、離欲第一の阿羅漢であると。しかし私はこのような念い、すなわち自分は離欲阿羅漢であるという念いを起こすことはありません。世尊、もし私がこのような念い、すなわち自分が阿羅漢の道果を証得したという念いを起こすならば、世尊は須菩提が静寂な行を喜び楽しむ行者であるとはお説きにならなかったでしょう。なぜなら須菩提の心は空しく為すところ無く、それゆえ須菩提は静寂な行を喜び楽しむ行者であると言われるのです。

須菩提は別名を空生(くうしょう)ともいい、常に世の空寂を感知していました。無諍三昧を証得していたため、決して世間の人と諍わず、世間の人が東と言えば東、南と言えば南、西と言えば西、北と言えば北でありました。なぜなら世間の人が何を言おうとそれが空であるため、優劣や長短を諍う必要がなかったからです。須菩提は世間に対していかなる欲望や考えもなく、心は空・無相・無願であり、為すところがありませんでした。人の中で第一の離欲阿羅漢ですが、須菩提は決して「私は離欲阿羅漢である」という念いを持たず、ましてや自分を宣揚することもありませんでした。彼は我相に執着せず、自分が阿羅漢であるという相にも執着しませんでした。そうでなければ相に執着する凡夫となり、世尊は須菩提が静寂な行を喜び楽しむ行者であるとは説かれなかったでしょう。須菩提の心が常に空寂で、欲も求めもなかったゆえに、世尊は彼を静寂な行を喜び楽しむ行者であると称賛されたのです。

一方、凡夫たちは須菩提とは反対に、事の有無にかかわらず、自らを誇示し宣揚することを好み、人と優劣を争うことを好み、目立つことを好み、追従や崇拝されることを好み、自分を強調することを好みます。要するに自分を売り込み、世に知らしめることによって、己の「我」が満足を得るのです。これが凡夫の相です。凡夫は我相を離れると為すところがなく、常に我相・四相の中に生きており、これが生涯の精神的な糧であり、不可欠なものです。ひとたびその「我」が抑圧されれば、魚が水を離れたようになります。要するに、人が道を有するか否かは、事象において現れ、身口意の行いが最も物語り、その人の思想境界と智慧境界を最もよく体現するのです。

——生如法師の開示
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阿羅漢はなぜ「私は阿羅漢果を証得した」という念いを抱いてはならないのか?

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如来は燃灯仏のもとで本当に法を得たのでしょうか?

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