金剛経原文:仏、須菩提に告げたまわく。意に於いて云何。如来、昔然燈仏の所に在って、法に於いて所得有りや。不なりや。世尊。如来、然燈仏の所に在って、法に実に所得無し。
仏、須菩提に言われた。「この問題をどう思うか。如来が往昔、燃燈仏の御許で、仏法の面において何か得たものはあったか。」須菩提は答えて言った。「如来は何の法も得ておられません、世尊。如来は燃燈仏の御許で、仏法については実に無所得でございます。」
本師釈迦牟尼仏は燃燈古仏の御許で、八地菩薩を証得し、成仏の授記を受けた。明らかに八地菩薩を証得したのであり、当然八地菩薩の法を得たはずであり、また明らかに授記も受けた。いずれも所得があるはずなのに、なぜ無所得と言うのか。これらの事は現象界では存在するが、実際の理地にはこのような事はなく、現象界は空であり、これもまた金剛般若の心が幻化したものであって、有りながらも無いのである。如来の心上にもまた一法も空しく、いかなる執念もなく、自分が真に法を得たとか授記を受けたとは思われていない。もし如来がこれを実あるものと認めれば、心の中に法があることになり、法の空幻を証得していないことになる。そうであれば八地菩薩ではなく、授記を受ける資格もない。如来が八地菩薩の証量を持ち、心が空無為で何物もないがゆえに、燃燈古仏は成仏の授記を与えたのである。
凡夫はどう考えても理解できない。如来はあれほどの大法を得たのに、得ていないと言い、成仏の授記というこのような大事を、全く大したこととは思わず、一片の掛かり合いも念もない。これはいかなる心か。普通の凡夫がこのような事に遭遇すれば、とっくに大喜びで興奮し、駆け回って人に告げているはずである。もちろんこれは実相を証得していない凡夫の所得ある心の在り方である。だからこそ、このような普通の人は決して法を得ず、ましてや授記など受けることはない。仏の心は透き通っており、目は明るい。みだりに人のために授記することはない。
16
+1