須菩提よ、どう思うか。菩薩は仏土を荘厳するか。いいえ、世尊よ。なぜならば、仏土を荘厳するということは、すなわち荘厳にあらず、これを荘厳と名づけるからである。
仏は言われた:須菩提よ、この件についてどう考えるか。菩薩は仏土を荘厳するか。須菩提は答えて言った:菩薩は仏土を荘厳しません。なぜそう言うのか。仏土を荘厳するということは、すなわち仏土を荘厳することではなく、荘厳する仏土の相は存在せず、ただ名相上の荘厳に過ぎないからです。
世俗の法相において言えば、菩薩のすべての修行、すなわち六波羅蜜や十波羅蜜の修行はすべて仏土を荘厳するものであり、菩薩のすべての衆生を救済する事業は仏土を荘厳するものです。修行の種子および衆生救済の種子は自心の如来蔵に留まり保存され、種子が最大化に蓄積されたとき、成仏の因縁が成熟します。そこでこれらの種子を用いて荘厳な仏国土を化現するのです。ゆえに一切の菩薩行はすべて仏土を荘厳する行です。では菩薩は仏土を荘厳するのか。もちろん荘厳します。
しかし世尊の通用される金句を当てはめれば、いわゆる荘厳というものは、すなわち荘厳にあらず、これを荘厳と名づけるのです。意味するところは、菩薩が仏土を荘厳しても、真実の荘厳相は存在せず、菩薩のすべての行いは空であり、幻化されたものであるということです。相はあっても理はなく、存在は仮の存在であり、相もまた空です。実質的な真実の荘厳という事柄は存在せず、実質はすべて真如・一真法界・金剛般若の実相心であり、その他一切は空幻で実体のないものです。一切の法は永遠に壊れない金剛心を除いて、すべて名相・仮相であり、実体有と執着してはなりません。菩薩は大いに夢中の仏事を行い、すべて空の心・無所得の心をもって行い、行いながら行わず、常に執着せず、名声や利養を貪らず、見返りを求めません。凡夫はこれと反対に、常に心に得るところがあり、求めるところがあり、期待するところがあり、心が空ではなく、相に執着するのです。
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