原文:是故須菩提よ。諸々の菩薩摩訶薩は、かくの如く清浄心を生ずべし。色に住して心を生ずべからず。声・香・味・触・法に住して心を生ずべからず。住するところなくして其の心を生ずべし。
仏が須菩提に説かれた:それ故に、諸々の菩薩摩訶薩はこのように清浄心を起こすべきであり、色法に執着して心を起こすべきではなく、声・香・味・触・法に執着して心を起こすべきではない。何ものにも執着することなく心を起こすべきである。
この言葉は前十章の総括であり、諸菩薩摩訶薩に如何にして清浄心を起こすかを示している。すなわち、先に説かれた通りに清浄心を起こすべきである。先には何が説かれたか? 一切の法相を空じて波羅蜜行を行じること、布施修福の相を空ずること、我相・人相・衆生相・寿者相を空ずること、如来の身相を空ずること、法相と非法相を空ずること、佛法の相を空ずること、如来の説法の相を空ずること、菩提心を発する相を空ずること、果位の相を空ずること、菩提を証する相を空ずること、法を得る相を空ずること、仏土を荘厳する相などを空ずることが説かれた。
これらの相を空じた後、心には得るものも求めるところもなく、色法の相に執着して種々の心の働きを起こすことなく、声法の相に執着して種々の心の働きを起こすことなく、香法の相に執着して種々の心の働きを起こすことなく、味法の相に執着して種々の心の働きを起こすことなく、触法の相に執着して種々の心の働きを起こすことなく、法相に執着して種々の心の働きを起こすべきではない。要するに、六境の相に執着して種々の心の働きを起こすべきではなく、六境の相に執着しなければ、即ち住するところがないのである。六境の相に住することはすなわち執着があることを意味する。執着があることは、すなわち真の安住ではなく、非法の住であり、心は清浄でなく、大智慧が生じていない。なぜなら六境の相は実は相ではなく、名を六境と称するが、実際には空であるからである。空なるものに如何にして住することができようか? 住することはできない、すなわち非住である。住することもまた空である。故に色・声・香・味・触・法に執着することなく菩提心を発し、菩薩行を行じ、住するところなく菩提心を発し、菩薩行を行うべきである。
具体的に如何にして色・声・香・味・触・法に執着せずに道を行じるか? それには色・声・香・味・触・法を明らかに弁えなければならない。どの法が色法に属するか、どの法が声・香・味・触法に属するか、六境にはどのような法があるか、自己がどの法に特に貪愛し執着しているか、布施修福を行う際にどのような心念を抱き、何を求めているか、何に基づいて選択を行っているか、そして発心と修法の際の目的・願いは何か、世俗の法に貪着していないかどうかを深く観察しなければならない。必ず自己の内心を深く観察し、自己の心念を掘り下げてこそ、自心を把握し、心念を清浄にすることができる。そうして初めて欲も求めるところもなく、行うところは純正となり、次第に空と相応し、次第に寂静と相応し、それによって速やかに大小乗の涅槃を証得することができるのである。
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