衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年06月20日    木曜日     第1開示 合計4198開示

なぜ阿那含は自らを三果の聖者と念ずることができないのでしょうか?

金剛経原文:須菩提よ、どう思うか。阿那含は『私は阿那含果を得た』という念いを起こすことができるか。須菩提は言う。いいえ、世尊よ。なぜならば、阿那含は『不来』と名付けられているが、実は『不来』というものは存在しない。これを阿那含と名付けるのである。

直訳は以下の通り:仏が須菩提に言われた。この件をどう考えるか。阿那含は「私は阿那含果を得た」という念いを持つことができるか。須菩提は答えて言う。阿那含はそのような念いを持つことはできません。なぜそう言うのか。阿那含は「不来」と名付けられているが、実際には「不来」という法相は存在せず、つまり阿那含果を証得したという事柄そのものも、阿那含は単なる仮の名に過ぎないからです。

三果を証得した者は、心が二果の者よりもさらに空であり、「私が如何ほどである」という念いなど更になく、したがって「私は阿那含である」と念念に思うことはない。もしそうであれば、心念が空でなければ、阿那含を証得したことにはならない。阿那含は初禅以上の禅定を有するため、命終した後は色界の五不還天(ごふげんてん)に生まれて引き続き修道し、五不還天において四果阿羅漢を証得し、直接無余涅槃に入り、再び人間界には戻らない。それゆえに「不還果」、また「不来果」と呼ばれる。実際には「人間界に来ない」という事柄は存在せず、来ることも来ないこともその事実はなく、全ては幻化した仮の相である。この仮の相に再び名前を付けて阿那含、三果と呼ぶのである。したがって、証得できる真実の阿那含果が存在すると考えてはならず、三果の者が実在する者であると考えてはならず、執取心や驕慢心を起こしてはならない。そうであれば、それはもはや三果の者ではない。

——生如法師の開示
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なぜ二果の斯陀含は「我、斯陀含果を得たり」という念いを持ってはならないのでしょうか。

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阿羅漢はなぜ「私は阿羅漢果を証得した」という念いを抱いてはならないのか?

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