ある人が言う、物質は観察される場合とされない場合、その状態は異なると。では物質が観察されていない時、どうして観察されていない時の状態を知ることができるのか。物質の状態を知る限り、物質は既に観察されたのであり、観察しなければ物質の状態を知ることはできない。例えば人が壁を見ている時と誰も壁を見ていない時、壁体に何か変化があるだろうか。十人がこの壁を見る場合と一人がこの壁を見る場合、壁体に何か違いがあるだろうか。私たちが外出前の家と外出後の家に、何か違いがあるだろうか。もちろん、一つの色法は、観察者がいるか否かにかかわらず、刹那刹那に生滅変化している。違いは、これらの変化を私たちが定力と智慧をもって観察できるかどうかにある。
宇宙器世間の物質色法は、共業の衆生の如来蔵が衆生の共同業種に基づいて生じたものである。衆生が全て消滅した後、業種もなくなり、業縁が終われば、物質色法は徐々に消滅する。これには一定の時間を要する。物質色法に変化が生じたことを知り、変化後の状態を知ることは結果であり、これは自証分である。自証分があれば必ず相分があり、必ず見分がある。見分があれば必ず観察したのであり、観察しなければ観察の結果である自証分はなく、何も知ることはない。
もし人を密閉された無人の空間に閉じ込め、誰も彼を観察しなければ、彼の身体は波動に変化するだろうか。あなた方は実験してみるとよい。人のいない山中に赴き、誰にも観察されない時、自ら体験してみよ。身体は波になっただろうか。もしそうなら、誰が子供を一人で家に閉じ込めようか。科学及び実験は必ずしも真の科学ではなく、多くの現象を理に適い真実のままに解答できないかもしれず、解答を誤るかもしれない。凡そ仏法と一致せず、仏法で説明できないものは、必ず誤りや欠陥がある。科学者がどのような方法や機器で実験しようと、最後は目で識別しなければならない。そして識別は眼識・意識・意根・第八識が共同で作用する。故に結果を知ることは必ず観察したのであり、観察されていないものはない。
一切の物質色法は本来質礙作用を持たない。神足通を得た人々は皆これを証明している。神足通のない人々がなぜ物質色法に阻まれるのか。それは意識と意根の誤った解釈により、一切法を真実と見做し、心に滞礙が生じ通じないため、物質が阻害作用を持つのである。もし心に滞礙がなければ、身体は直ちに壁や高山、深海、はては須弥山をも超越し、二つの身体は完全に重合し、圧迫感を覚えることはない。物質は皆微粒子状態であり波動状態でもある。本来このようなものであるから、物質はエネルギーを持ち、動勢を有するのである。
色身は意根の堅固な妄想によって形成される。意根の妄想は皆堅固で改め難い。故に一切法は滞礙し通じず、心に種々の不如意や挫折が生じる。心を改めれば、一切法を改めることができる。
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