問:量子力学では、静止した粒子が崩壊して二つの光子を生成し、互いに反対方向に極めて遠くまで飛んでいくと説明されています。一方の光子を測定したり接触したりすると、もう一方の光子がそれに対応する反応を示すのはなぜですか?
答:この二つの光子は同源であり、どちらも同じ粒子から発生したためです。この粒子は四大種子(しだいしゅじ)で構成されており、二つの光子に分離した後も、両方の光子の四大種子の構成構造は同じであり、互いに密接な関連性を持っています。両者の距離がどれほど離れていようとも、相互に牽制作用を及ぼし合います。実際、二つの光子の間の距離は虚空(くう)であり、虚空は空大種子(くうだいしゅじ)で構成されています。空大によって形成された虚空には距離がなく、何も存在しません。したがって、二つの光子の間に距離という概念はそもそも存在しないのです。世俗の物理世界でどれほど離れていようとも、本質的には依然として同じ粒子に属しており、牽引力や引力、そして同じ機能作用を持っているため、一方が変化すればもう一方も同じ変化を示します。これは同源であるが故です。
そして、この世界全体の物質は、共業(ぐうごう)の衆生の四大(しだい)が和合(わごう)して構成されているため、当然ながら互いに密接な関連性を持っており、ほんの一部分に触れるだけで全体が動く可能性があります。ただし、この密接さは、同じ粒子上の光子の関連性の密接さにははるかに及びません。既然(すでに)、虚空や空間に実体も法則も存在しないのであれば、時間というものがあるだろうか? ありません。私たちはこれらの法(教え)を修学することで、次第に一切の法が空(くう)であることを認識していきます。実際、人は皆、もう一踏ん張り努力すれば心は空となり、悟りに至ることさえできるのです。しかしながら、道業(どうごう)の資糧(しりょう)があまりにも不足しているが故に、実行しよう、空になろうと想像し、計画し、打算するばかりで、結果として空になることはできず、その一踏ん張りも出せないのです。したがって、法理(ほうり)だけを重視し、資糧の積み重ねを重視しなければ、道業を修めることは叶いません。
唯識(ゆいしき)と比較すると、小乗(しょうじょう)の空は取るに足らないものであり、論ずるに値しません。大乗(だいじょう)の空こそが真の空であり、徹底的に空であり、究竟(くきょう)の空であり、あっさりと空であり、清らかに空なのです。一物も存在せず、一法(いっぽう)も存在せず、微塵(みじん)ほどのものさえ存在しません。
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