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日常法話

2024年04月30日    火曜日     第1開示 合計4167開示

意根の五つの名前の意味(一)

大乗起信論原文:生滅因縁とは、これ諸の衆生、心意識に依って転ずることを謂う。この義はどういうことか。阿頼耶識に依って、無明不覚ありて起こり、能く見、能く現じ、能く境界を取って、相続して分別する。これを名づけて意と為すと言う。

釈:一切の法の生と滅は、全て因縁によって現起するものであり、これらの因縁には阿頼耶識・意根・意識という三つの能変識が含まれる。その中で意根は一切の法が現起する最も重要な因縁であり、衆生は全て意根に依って流転している。阿頼耶識が一切の生滅法が出生する直接の因であるとは言え、それは意根によって促されるものであり、意根という因と縁がなければ、阿頼耶識は如何なる法も出生しない。意根は阿頼耶識に依り、自心の無明に随って阿頼耶識が出生する一切の境界法を見、その後心の中で阿頼耶識が出生する一切の境界法を現じ出し、阿頼耶識が出生する一切の境界法を取り執って、絶え間なく相続して分別し、少しも自らにこのような無明があることに気づかない。このような心体を名づけて意根と為す。

原文:この意にはまた五種の異名あり。一つには業識と名づく。無明の力、不覚に心動くことを謂う。

釈:このような意根には五つの異なる名前がある。最初の名前を業識と言い、意根は業を造る主人である。無明があり、かつ自らの無明に不覚であるため、無明の力が意根の心を動かして意を起こさせる。意を起こした後、引き続き触・受・想・思が出現し、意根の心が決定を得た後、六識の身口意の業行が造作され、続いて業種を残して後世に報いを受けるに至り、生死が相続して絶えない。故に意根は業識であり、無明の業力と相応し、業種と相応し、生死と相応する。もちろん修行を通じては空と相応し、清浄と相応し、寂静と相応し、解脱と相応する。故に修行とは即ち意根を修め、我見を断ち、明心見性し、識を転じて智と為し、唯識種智を具え、最終的に仏と成ることである。

意根が業力と相応し、業種と相応するのであれば、我見を断つ清浄な業は意根によって任持され、明心見性の清浄な業も意根によって任持される。意根のみが我見を断ち明心見性して初めてこのような清浄な業種を任持でき、そうでなければ意根は任持できず、後世にはこのような清浄な果報はない。同様に、悪業を造る業種も意根によって任持され、意根の心が悪でなければ悪業を造作できず、悪業の種子を後世に至るまで任持できない。故に意根は一切の煩悩心所法を具足し、また一切の善心所法をも具足する。

原文:二つには転識と名づく。動く心に依って、能く境相を見ることを謂う。

釈:意根の二つ目の名前を転識と言い、転とは流転の意味でもあり、また運転の意味でもある。意根は無明の力に依って、法を阿頼耶識から流転させ運転させることができる。意根の心が動くと、阿頼耶識はそれに従って境界を出生し、意根は境界相を見る。心が更に動くと、六識が出生して業行を造作し、五陰の作用が現行に現れ、後世の生死が絶えなくなる。境界と五陰は全て意根の心の動きに随って出現し、生死もまた意根の心の動きに随って出現する。故に意根は一切の法を転動させるスイッチであり、意根こそが転識であると言う。

原文:三つには現識と名づく。一切の諸の境界相を現ずることを謂う。あたかも明鏡が衆の色像を現ずるが如し。現識もまたしかり。その五境の如く、対至すれば即ち現じ、前後なく、功力によらず。

釈:意根の三つ目の名前を現識と言い、この現は現じ出す意味である。意根が一切の法を見た後、一切の法を現じ出し、一切の法は意根の心の中で影像を現じ出す。意根は阿頼耶識に依り、阿頼耶識が何の境界を変現するかに応じて、意根はその境界を了別でき、心の中でその境界を現じ出すことができる。あたかも明鏡が一切の境界相を現じ出すように。例えば五塵境界像に対して、意根が触れると直ちに五塵境界像を現じ出す。阿頼耶識が境界を出生する時、意根はほとんど同時に前後の順序なく心の中で境界を現じ出し、また意図的に加工する必要もない。

何故六塵境界像や法塵境界像と言わずに、五塵境界像と言うのか。ここでの五塵は実質的に法塵を含む六塵を指し、五塵を代表としている。それぞれに独自の法塵があるため、これは省略表現である。そうでなければ、色塵と色塵上の法塵、声塵と声塵上の法塵、香塵と香塵上の法塵、味塵と味塵上の法塵、触塵と触塵上の法塵と言うことになり、非常に煩雑であるため、簡略して五塵と言うのである。

通常、意根が法塵に触れて意識を生じると言われるが、では五識は如何にして生起するのか。或る者は五識は五根が五塵に触れて生起すると言うだろう。しかし五根は色法であって心法ではなく、識心ではない。どうして能動的に五塵と触れて識心の能動性を持つことができようか。実質的に五根が五塵に触れるのは、依然として意根が主導して促すものである。意根が主導して五根に五塵に触れさせて五識を生じさせると同時に、法塵に触れて意識を生じさせる。意根が主導である以上、五塵境界像に対しても意根は触れ、触れた後は完全な六塵像を現じ出す。抉択した後、六識を出生して六塵境界像を了別し処理する。六識は一部の六塵境界を了別し、他の六塵境界を了別しない。これが意根の起こす抉択と主導作用である。


——生如法師の開示
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意根の五つの名前の意味(二)

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