衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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日常開示

2024年05月03日    金曜日     第1 回の開示 合計4168回の開示

意根の五つの名前の意味(二)

四名智識。染浄を分別し、諸々の差別法を識別することを謂う。

釈:意根の第四の名称を智識と云い、一切の善悪是非等の染汚と清浄の法を分別し、一切の法の差別相を明らかに識別する。『大乗起信論』に意根を智識と説くのは絶対に正しく、作主識として衆生の根本を代表し、衆生の一切を決定する。もし五陰身の作主識にこのような智慧がなければ、五陰には智慧がなく、世間に智慧ある者は存在しない。意根の慧が劣るとする説は不完全に正しい。具体的に極めて微細な法塵を分別する際、確かに意根は意識に及ばないため意識を用いるが、一旦意根が微細な法塵を分別する能力を得れば、意識と五識は用を成さず、意根自ら直接に六識の機能を代替し、識を捨て根を用いれば、多くの煩雑や障りが消え、大神通が顕現する。

五名相続識。恒に作意し、相応して断絶せず、過去の善悪等の業を任持し、失壊せしめず、現未の苦楽等の報を成熟せしめ、違越せしめず。已に経たる事は忽然に憶念し、未だ経ざる事は妄りに分別を生ず。

釈:意根の第五の名称を相続識と云う。意根が相続識と称される所以は、その五遍行心所法が永遠に相続不断に運行するため、阿頼耶識は意根に随って不断に一切の法を生起し、一切の法を運作し、五陰世間が相続不断に現出し、此の世滅び後世生じ、生生止まざるが故である。かくして一切の善悪・染汚・清浄法は意根に随って不断に顕現し、善悪業は断絶せず、善悪果報は失壊せず、且つ意根は現在未来の苦楽等の果報を成熟させ、因果の軌則に違背しない。意根が生生世世無始劫以来に経験した事柄は、因縁有る場合に忽然に憶念され、未経験の事柄も虚妄に分別される。

馬鳴菩薩は意根が善悪業を任持し業種を失壊させず、且つ業果報を成熟させると説く。この法義は極めて深遠で意義重大である。六識が造作する身口意行は、一には種子として阿頼耶識に収蔵され、阿頼耶識が執持含蔵する。二には意根が任持し未来世に帯び行く。任持とは負担し背負う意味、業行に対し責任を負う意味である。

何故業行を意根が背負い責任を負うか。意根は作主識であり、五陰身の主宰者で一切の業行の主宰者・張本人である。六識は助手として配合するのみで主宰せず、阿頼耶識は更に業行の主宰者でなく、作主として業を造らず、故に業造作後、一切の業行は意根が責任を負い業果を背負う。六識が業行を背負おうとも背負えず、一に作主でなく、二に命終すれば滅壊し業種を後世に帯び行けぬ。一切法は意根が作主として造作する故、業行の善悪は意根の善悪を体現し、意根の善悪心所法は悉く具足し、業行・業種と相応し、善悪心所法を後世に継続する。故に修行とは意根を修め、意根を薫染し、意根を改変することである。

意根は更に善悪苦楽の業報を成熟させ因果と相応する。或る者は問う「業報は阿頼耶識が成熟させるのではないか」と。阿頼耶識は成熟した業種を現行し業報を実現するが、業報・業種を成熟させず、業縁具足し業種成熟時に初めて阿頼耶識は成熟業種を現行し業報が顕れる。業種・業報の成熟は阿頼耶識の務めでなく、意根の務めである。意根は業を身に帯び、外縁現前時に業報が現出する。

『起信論』が意根に憶念作用有りと説くのは極めて正しい。意根も心であり、且つ極めて重要な心で、極めて重大な作用を果たす。一切の法は意根が経験済みであるから、経験済みならば当然憶念し、且つ意識にこの憶念に依って過去を回想せしめる。故に意根に念心所有りと説き、一切の法を憶念・心配する。一切の法は主人たる者が心配し憶念し、処理を欲する時、助手を呼び具体

——生如法師の開示
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