私たちの身体活動は、末那識が大脳を調節して作用したものであり、六識の協力がある。例えば朝に目を開けるとき、目は自動的に開くのではなく、末那識が命令を発し、六識を調節して目を開かせる。食事の際に末那識が満腹の信号を知り、食べるのをやめると決定すると、六識に摂食を停止するよう命令し、六識は命令に従って食べるのをやめる。これもまた、末那識が大脳を通じて全身の活動を制御できることを証明しており、全身の活動はすべて六識の活動である。例えば、顔を真っ赤にして首筋を膨らませたり、激怒して飛び上がったり、逆上して暴れたり、大げんかをしたり、喜びに満ちて顔がほころび、心が花開くなどは、すべて末那識の煩悩や感情によって表出されるものであり、末那識が操作した結果である。
末那識は何に基づいて命令を発するのか。色身の状況を、なぜ末那識はそれほど正確かつ即座に掌握できるのか。色身の中の一切の法は如来蔵が顕現し保持しているものであり、食事がどの程度まで進んだかは、如来蔵が刹那にありのままに反映する。末那識は如来蔵に依って全てを知り、知った後に決断心を生じ、ある決定を下し、その後命令を発する。もちろん、末那識が六塵の境界を知ること、身体の詳細な状況を知ることは、六識が識別することによって得られる。昏睡時や睡眠時の身体状態も、如来蔵が刹那にありのままに反映し、末那識は即座に知る。これらの時には意識は全く存在せず、すべて末那識が如来蔵に依って単独で知るものである。
また例えば突然知人に会った時、意識ではどうしても相手の名前が思い出せないが、それでも相手の名前を知っている感じがし、非常に親しく感じられ、口の端にすぐに出てきそうな気がする。このような状況は単に意識が思い出せないだけで、末那識が相手や名前を認識していないわけではない。相手が去った後、意識は突然思い出す。なぜ意識は思い出せるのか。やはり末那識が意識に一定の情報を与えたため、意識は突然思い出すのである。一切の法の運営には必ず末那識の作用があり、必ずしも意識の作用があるわけではない。もしある機能作用について、末那識の作用の有無や作用の大きさが区別つかない場合は、六識がない幾つかの状態を考え、末那識がどのように働くかを考察するとよい。
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