六塵縁影は鏡の中の像の如し。我々が見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるもの、想うもの、行うもの、これら全ては鏡の中の影である。鏡の中の影を見る時、この影にどんな感慨を抱こうと、どんな考えを持とうと、この影に如何なる作為を加えようとも、結局影は影に過ぎず、真実のものではない。我々が分別するのは鏡の中の影に過ぎない。この影は善く、あの影は悪しと、絶え間なく執着し掴み続けるが、結局何も真に執着できるものはない。全ては影であり、真実の作用はなく、結果も過程も空である。川面に映る樹影のように、どれほど賞賛し執着しても、それは実在しない。川面の月を猿が必死に掬おうとしても、結局一片も得られないように、川底に真実の月は存在しないのだ。
我々が触れる一切の境界もまた同様である。あたかも何かを享受しているようで、実は何も享受していない。全て影との関わりに過ぎない。意根が六識を指揮し、絶えず作意し、触れ、受け、想い、執着するが、実際には何も得られない。幻法が幻法に対峙しているだけで、何の真実があろうか?しかし我々はこの幻境から脱出できず、事実の真相を了知できない。薄福と愚痴の故である。諸仏は衆生を憐れみ、様々な譬喩をもって教化し、戒定慧を修めさせ、遮障を除き、事実を悟らせる。この世に得るべき一法も実在せず、心を息めて妄想を除けば、即ち真実相が見える。衆生が仏語に依り真に修行してこそ、影を見極め、自性に回帰し、解脱を得るのである。
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