衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年04月04日    木曜日     第1 回の開示 合計4154回の開示

如来蔵識体は捨て去ることができるでしょうか

問:『成唯識論』に「(如来蔵は)或いは異熟識と名づく。生死を引き起こす善不善業の異熟果を生ずるが故に、この名称は唯だ異生・二乗・諸菩薩位にあり、如来地には非ず。未だ異熟無記法有るが故なり」と「異熟識の体は、菩薩が菩提を得んとする時に捨て、声聞独覚が無余依涅槃に入る時に捨つ」とあるが、これら二つの文は矛盾するか。阿羅漢が無余涅槃に入った後も依然として阿羅漢たるか、二乗に属するか。特に後者の文について、異熟識の体を捨て得るのか。

答:八地以前の菩薩の如来蔵は阿頼耶識と称し、八地菩薩以降及び声聞縁覚の涅槃後は如来蔵を異熟識と称す。声聞独覚が無余涅槃に入る時は阿頼耶識の名称を捨てるも、阿頼耶識の体を捨てるにあらず、ましてや異熟識の体を捨てることは不可能なり。妙覚菩薩が成仏せんとする時は如来蔵の異熟識という名称を捨つるも、異熟識の体を捨つるにあらず。体は真実存在にして不生不滅、仏ですら捨て得ざるもの、まして菩薩においておや。仮に異熟識の体を捨つれば、一切の法は存在せず、再び生起することもなく、永遠に五蘊も涅槃も諸仏も世界もなくなる。異熟識の名称を捨て得るのは、全ての異熟性を滅し、全ての無明を断じた諸仏のみなり。等覚菩薩ですら異熟識の名称を捨て得ず、まして阿羅漢・辟支佛・独覚仏においてをや。

——生如法師の開示
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修行とは、七識の染汚性を取り除くことである

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凡夫は如来蔵に執るべきか

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