問:如来蔵が存在すると深く信じることは、微細な法執に当たるのでしょうか?つまり如来が形も相もないことを認めつつ、その無形無相自体を執着している状態です。ある人が「表現の必要上この名称を使わざるを得ないが、実際には名称もなく『名称なき意象』も存在しない」と主張するかもしれません。
答:我執と法執の問題については、今は考える必要がありません。我執は四果の阿羅漢になって初めて断じられるもので、凡夫が四果に至る道程はまだ遥か遠く、我見を破るだけでも困難な状況で、どうして我執を破ると言えるでしょうか。特に法執は地上の菩薩が徐々に破っていくもので、明心も証果もない者が法執を破ることは根本的に不可能です。凡夫と地上菩薩の隔たりはほぼ無量劫の時間に等しく、早々に法執破除を論じても何の益もありません。
如来蔵の存在を深く信じることは法執ではありません。如来蔵への執着を断たないことが法執なのです。牢関を破る以前は、如来蔵を執着するのは正常であり、むしろ当然です。畢竟、如来蔵を執着する方が五蘊を執着するより遥かに清浄ですから、如来蔵を執着するに越したことはありません。如来蔵を証得して初めて、徐々に如来蔵への執着を離れられるのです。現時点で如来蔵を証得していない者が執着について論じる必要はなく、ただ如来蔵が真実であると認められれば、それで十分です。如来蔵自体に我性はありませんが、第六識と第七識が如来蔵を真実の我と見做すことは、牢関を破る前段階では良い現象であり、正常かつ当然のことです。
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