衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年03月24日    日曜日     第1 回の開示 合計4148回の開示

悪人を適切に処する方法とは?

世俗界では、人性が本来善であるか悪であるかという問題が絶えず議論され、論争が続いています。この問題は仏教においては問題ではなく、もし人性が本来善であるならば、三悪道の衆生は存在せず、衆生に貪・瞋・癡の三毒の煩悩も生じず、社会に重大な犯罪現象もなく、刑務所に多くの人々が収容されることもないはずです。多くの人々が刑務所に出入りを繰り返しても悔い改めない現実があります。天人の心性ですら全てが善ではなく、煩悩、特に愚癡という極めて大きな煩悩を抱えています。煩悩のない衆生は輪廻せず、輪廻が存在する限り煩悩も存在します。人性は悪多く善少なく、ある者は全く善を持ち合わせていません。

なぜ人性は本来悪なのでしょうか。無明の故です。この無明は衆生が存在する時から具わっているもので、後天的に生じたものではありません。無明によって衆生は悪業を造作し、無量劫また無量劫の生死輪廻を繰り返します。各衆生はほとんどの時劫を三悪道で過ごし、人間として人界に存在する時劫は生命の長河における百分の一、千分の一、万分の一に過ぎません。畜生道の衆生の中には今まで人身を得たことがなく、畜生道から脱したことのない者もおり、これらは極めて愚癡な衆生であり、愚癡そのものが悪です。

無始劫の中で三悪道から初めて人間に生を受けた者は、極めて愚癡で劣悪であり、全く人性に相応せず、心性は畜生と非常に似通っています。彼らはただ愚癡な者もいれば、愚癡かつ残虐で殺生を好む者もおり、人間界に生きる限り人を害し、人を害することが彼らの本性です。殺生性と害意こそが彼らの畜生の本性です。こうした者が人性と善性を具えるためには、人道において多生多劫にわたり人類の中で善法を薫習し続け、徐々に畜生の悪性を除去し、人類の習性を染める必要があります。人類の習性はそれほど善ではないにせよ、畜生性よりは善であり、こうした累生累世の薫習を経て初めて完全な人格と完璧な人性を具えるのです。

しかしこの過程において、多くの人々がこうした者たちに残虐に傷つけられ殺害されます。善人と悪人が共に過ごせば、当然ながら善人が災難に遭い損をします。法界において永遠に続くこの法則により、善人と悪人が混住すれば、永遠に悪人が悪を造作し、善人は悪人の悪に耐え忍ばなければなりません。絶えず問題を引き起こす者の多くは悪人や底辺の者であり、問題を抱えるのは常に無教養な者です。善人は悪業を造作せず、あるいは大悪業を造らず、故意に人を傷つけないため、ただ傷つけられるのみです。悪人は必ず悪業を造作し、必ず人を傷つけます。彼らの最初の本性は改まりません。ではこうした悪人が極大の悪業を造作した場合、彼らの生命を奪い続けて人を傷つけることを止めさせるべきか、あるいは生命を留めて人間界で善法を薫習させるべきでしょうか。

二つの選択にはそれぞれ利点と欠点があります。生命を留めれば次々と人が傷つけられ殺害され、他の生命が脅威に晒されます。悪人の生命を奪い同類を傷つけることを阻止すれば、これらの悪人は善法を薫習する機会を失い、悪性を改める機会なく心性の進化が阻害され、これも大きな損失です。この問題に対し、果たしてどうすべきでしょうか。善人と悪人がそれぞれ適所を得て平穏に過ごすより良い方法はあるのでしょうか。極楽世界において阿弥陀仏はどのように善悪人を管理されているのでしょうか。

解決策は、類は友を呼び人以って群を分かつことです。善人と悪人を分離し、異なる次元と属性の有情を全て分離し、混住させてはなりません。法界の法則は全てこのように定まっており、極楽世界などの仏国土が娑婆世界のような仏国土と分離されているように、二つの世界の衆生の心性は異なり、境界を接することも混住することもなく、それによって煩わしさを避けます。衆生の次元は多岐にわたり、各次元の衆生の思想と観念は千差万別で統一や調整が不可能です。混住すれば絶えずトラブルが生じますが、隔離すれば何事も起こりません。

仏教の戒律においても同様の要求があります。同戒同行の原則を遵守し、受ける戒が異なれば同住できず、出家と在家は混住できません。同様に出家同士でも戒律と修持が異なれば同住できず、在家同士でも戒律と修持が異なる場合は極力同住すべきではありません。そうしなければ問題が生じ、仏戒に背くことになります。世俗界においても概ね自然にこうした集団が形成されます。福徳と智慧、社会地位、教養と素質が異なれば、通常は分かれて居住します。犯罪を犯した悪人は刑務所に収監され、罪を犯さない者と隔離されます。衆生は総体的にその業行と心性の違いにより六道に分かれ、善悪の衆生は共住しません。

——生如法師の開示
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