衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2024年03月25日    月曜日     第1開示 合計4149開示

修行は定福だけでは不十分です

世間における生活においても、出世間法の修行においても、禅定による福徳だけではまったく不十分である。外道は禅定のみを修め、禅定による福徳はあっても、智慧による福徳がなく、大菩提心を発する福徳もなく、布施による福徳もない。このような福は禅定中でのみ享受でき、どの天界に住んでいようと定中の福を享けるが、出定後には何も残らない。釈迦仏の外道の師は禅定による福のみを持ち、智慧による福がなく、三界で最も高い非想非非想処定(ひそうひひそうしょじょう)に達したが、未来世において何劫ものちに出定した後、かつて発した悪願に従って悪業を造り、その悪業の縁によって地獄に堕ちて報いを受ける。したがって、禅定による福のみでは依然として有漏の不究竟なものであり、解脱と自在を保証できず、涅槃に入り仏道を成就することも保証できない。仏法を学ぶ者は多方面で福を修めるべきであり、福がすべて円満になって初めて修行の道はますます順調に進み、限界なく遠くまで進むことができる。

たとえ定による福を得た場合でも、あるいは他の面で非常に大きな福を得た場合でも、日常生活においてむやみに浪費すべきではなく、すべてを世俗の生活に費やすべきではない。修道のために取っておくべきであり、道が成就すれば世間の福など取るに足らない。福徳は修道にとってあまりにも重要であり、ほんの少し福が足りないだけで修行は一つの段階を越えられない。したがって修行者は高遠な志と大きな目標を持つべきであり、目前の低品位な享受を貪ってはならず、生滅法を軽んじることで初めて不生不滅の永遠に到達できるのである。

——生如法師の開示
前へ前へ

悪人を適切に処する方法とは?

次へ 次へ

虚空は三界の内にあるのか、それとも外にあるのか

ページトップへ戻る