世間における生活でも、出世間法の修行においても、禅定の福徳だけでは全く不十分です。外道は禅定のみを修め、禅定の福徳はあるものの、智慧の福徳がなく、大菩提心を発した福徳もなく、布施の福徳もありません。このような福は禅定中でしか享受できず、どの天界に住んでいようと定中で福を享けるだけで、定から出れば何も残りません。釈迦仏の外道の師匠は禅定の福徳のみあり智慧の福徳がなく、三界で最も高い非想非非想処定を修得しましたが、未来世において何劫も経って定から出た後、かつて発した悪願に従って悪業を造り、その悪業の縁によって地獄に堕ちて報いを受けるのです。故に禅定の福徳だけでは依然として有漏で不究竟であり、解脱と自在を保証できず、涅槃に入り仏道を成就することを保証できません。仏法を学ぶなら多方面で福を修めるべきで、福が円満して初めて修行の道は順調に進み、限界なく遠くまで歩んでいけるのです。
たとえ定福を得たとしても、あるいは他の面で大きな福があっても、日常生活で無駄遣いや浪費をすべきではなく、全てを世俗生活に費やしてはなりません。修道のために取っておくべきで、道を成就すれば世間の福など取るに足りないものです。福徳は修道にとって極めて重要であり、ほんの少し福が足りないだけで修行は一つの段階を超えられません。故に修行者は高遠な志を持ち、壮大な目標を掲げ、眼前の低次元な享楽に貪着せず、生滅法を軽んじないことで、初めて不生不滅の永恒に到達できるのです。
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