俗世では、人性本来善か悪かをめぐる議論が絶えませんが、仏教から見ればこれは問題になりません。もし人性が本来善なら、三悪道の衆生は存在せず、貪瞋痴の三毒煩悩も生じず、社会に重大犯罪はなく、刑務所に多くの人々が収容されることもないはずです。天人でさえその心性が完全に善ではなく、特に無明は極めて大きな煩悩です。煩悩なき衆生は輪廻せず、輪廻ある限り煩悩が存在し、人性は悪多く善少なく、善を全く持たぬ者もいます。
なぜ人性は本来悪なのでしょう。無明の故です。この無明は衆生が存在する時から具わるもので、後天的に生じるものではありません。無明によって衆生は悪業を造作し、無量劫にわたる生死輪廻を繰り返します。ほとんどの衆生は三悪道で時を過ごし、人間界で人として生きる期間は生命の長河において百分の一、千分の一、万分の一に過ぎません。畜生道の衆生の中には未だ人身を得ず、畜生道から脱せぬ者さえおり、これらは極めて無明な衆生であり、無明こそが悪なのです。
無始劫より三悪道から人間界に生を受けた者たちは極めて無明で劣悪であり、人性とは全く相応せず、その心性は畜生と極めて似通っています。ただ無明な者もいれば、無明かつ残虐で殺生を好む者もおり、人間界に生きる限り他者を害することが彼らの本性です。殺傷性こそが彼らの畜生としての本性です。こうした者が人性と善性を具えるには、人間界で多生多劫にわたり善法を薫習し、畜生の悪性を徐々に除去し、人間の習性を染める必要があります。人間の習性も完全な善ではありませんが、畜生性よりはましであり、こうした累生累世の薫習を経て初めて完全な人格と人性を具えるのです。
しかしこの過程で、多くの人々が彼らに傷つけられ殺害されます。善人と悪人が共存すれば、当然善人が損害を被ります。法界の法則は常にこうであり、悪人は悪業を造り続け、善人は悪人の悪に耐えねばなりません。問題を起こすのは常に無修養な者たちです。善人は悪業を造らず、故意に他者を傷つけず、ただ被害を受けるのみです。悪人は必ず悪業を造り、他者を傷つけます。彼らの本性は最初から変わりません。ではこうした悪人が極大の悪業を造った場合、彼らの生命を奪い続けて害を防ぐべきか、あるいは生命を留め人間界で善法を薫習させるべきか。
双方に利弊があります。生命を留めれば被害が続発し、他者の生命が脅かされます。悪人の生命を奪えば悪業を阻止できますが、彼らは善法を薫習する機会を失い、悪性を改める機会なく心性の進化が阻まれます。これも大きな損失です。この問題にどう対処すべきか。善人と悪人をそれぞれ適所に配置し平穏に共存させる方法はあるのでしょうか。極楽世界では阿弥陀仏がどのように善悪人を管理されているのでしょう。
解決策は「類は友を呼ぶ」の原則です。善人と悪人を分離し、異なる次元・属性の有情を混住させません。法界の法則は極楽世界などの仏国土が娑婆世界と分離されているように、衆生の心性が異なる世界は接触せず混住しません。衆生の次元は多様で思想観念が千差万別であり、統合調整不可能です。混住すれば紛争が絶えず、隔離すれば問題は生じません。
仏教の戒律も同戒同行を要求します。受ける戒が異なれば同住できず、出家と在家は混住不可です。出家同士でも戒律や修持が異なれば同住できず、在家同士でも同様です。世俗界でも福徳・智慧・社会地位・教養素質の違いにより、自然と居住区が分かれます。犯罪者は刑務所に収容され、非犯罪者と隔離されます。衆生は業行と心性により六道に分類され、善悪の衆生は混住しません。
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