衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2024年03月22日    金曜日     第1開示 合計4147開示

時間と心不相応

時間とはいかなる法か。物質のような実有の法であろうか。時間は物質的な色法ではなく、実有の法でもなく、また心法でもない。色でも心でもなく、心と相応しない行法である。なぜ時間は心と相応しないのか。心が顕現した法は必ず心と相応し、三能変識が和合して変造した法は三能変識と相応し、生滅変異増減し、心のままに変化するからである。しかし時間という仮の法は三能変識が変造したものではなく、心法・色法・心所法が和合して顕れる仮の法である。ゆえに心のままに変化せず、生ずることも滅することもなく、延びることも縮むこともなく、得ることも失うこともできない。時間は物質のような実有の法ではない。物質的な色法は四大の種子によって形成される実法であるが、時間はいかなる種子によっても形成されず、物質の相対的な変化によって顕れる。したがって仮法であり、非実有の法である。亀の毛、兎の角のごとく、見えず、触れず、捉えられない。

時間の作用とは何か。時間には実質的な作用はなく、仮法は用いることができない。時間は仮法であり、何の役にも立たないため、互いに贈与したり侵奪したりすることもできない。ある者は言うかもしれない。「あなたは私の時間を占領した、私の時間を無駄にした」と。しかし実際にはそんなことは全くなく、誰も時間を占領したり無駄にしたりすることはできない。例えば、今私は食事をすべきところ、あなたが来たため、私はあなたの話に付き合い、あなたの用件を処理しなければならず、その結果食事ができなかったとする。この中に時間が関わっているだろうか。食事にせよ会話にせよ、用件の処理にせよ、その中に時間という法は存在しない。始めから終わりまで、人・事・物の運行であり、人・事・物の三つが和合して運行している。この過程の長短が時間を顕わにし、これだけの長い時間をかけてこれらのことを処理したと人に感じさせるのである。

心法と色法の運行過程の長短を顕わにすることができるものを時間と言い、物質の変化過程の長短を時間と言う。例えば、赤ん坊が生まれて一ヶ月後を満月と言う。一ヶ月は時間であるが、実際には赤ん坊の成長発育の一過程に過ぎず、時間というものはない。赤ん坊が一年、十年、百年成長することも、一秒、一分、一時間、一日というのも、全て赤ん坊の成長過程を指すのであって、時間という法は存在しない。時間は受動的に顕わにされるのである。ある者は今時間が止まったように感じる、動いていないと言うが、実際には心が動かず、分別しなくなったのであり、時間というものはない。時間が動くとか動かないとか言うのは全て戯論であり、まるで亀の毛や兎の角がどうのこうのと論じるのと同じで、全て戯論である。

我々が時間を見るのは時計を見るのであり、時計の秒針、分針、時針が組み合わさって時間を表示する。これらの針がなければ時間はなく、これらの針があっても同様に時間はない。時間の根本は空にある太陽の運行する位置に依って顕わにされる。太陽がなければ時間はなく、太陽があっても同様に時間はない。太陽が地平線から昇るとき、人類はこの状態を一日の朝と定義し、同時に気温が比較的低いため、朝日が昇るこの状態を朝と呼ぶ。太陽が頭上に昇ると、人類は一日の昼の時間と定義する。太陽が落ちて地平線より下になる状態を、人類は一日の夜と定義する。こうして太陽が一周運行するのを、人類は一日の時間と定義する。さらに太陽の運行周期の数を数え、それぞれ十日半ヶ月、一月から十二月、一年二年などと定義する。全ての長短の時間は物質的な色法に依って初めて顕わにされるのであり、何ら実体のある法として時間というものは存在しない。

もし誰かが私に何か用事を頼んできたとして、私は時間がないと言う。実際には誰も時間を持っているわけではなく、ただそれぞれの人がやるべき自分の用事があり、他のことをする余裕がないというだけのことで、仮に時間がないと名付けるのである。どんなことをするのも、心法と色法に関わることである。心法は識の種子によって形成された生滅変異の法であり、これまた実有ではない。時間よりはいくらか実在感があるが。物質的な色法は全て四大の種子によって形成された法であり、同様に実有ではない。ただ時間よりはいくらか実在感があるに過ぎない。心法も色法も虚妄の法であり、その二者が和合して顕わにされる時間は、なおさら虚妄の法である。

もし誰かが自分が生きる時間を長くしたいと望むなら、それは時間を引き延ばすのではなく、自分の色身である五陰の運行する流れを長くするのである。ある者が生きる時間が短いのは、時間を縮めたのではなく、五陰身の運行する流れが短いのであって、時間という相も法も存在しない。ある者は時間割を作るのを好むが、実際には時間割ではなく、時間上の配分ではなく、人・事・物を処理するフローチャートであり、人・事・物の配分の流れである。もし生命の中に時間の相がなくなったら、心はどれほどの束縛から解脱できるだろうか。以前は時間の観念があったために、自分自身にどれほどの制約を課しただろうか。どれほどの執念を増やしただろうか。

例えば一つの夢を見る、一つの長い夢、長々とした夢の中で、一生を生き、何劫もの時間を生き、甘酸っぱさ、悲喜こもごも、流離い、目覚めた時、それはただの一つの夢に過ぎなかったと気づく。何事も起こらず、何者も現れず、何物も得ることも失うこともなく、自分は無事であった。夢の中には人も事も物もなく、時間もなかった。全ては虚妄であり、目覚めると夢から解脱する。同様に、一切の衆生は生死の大夢の中で流離い、苦しみに満ちている。この生死の大夢は夜に見る夢と同じであり、何ら実在の人・事・物はなく、時間も空間もなく、何もなく、虚妄である。目覚めた時、自分は何も得ず何も失わず、何にも執着せず何にも妨げられず、全く事なきことを悟る。この時こそ大解脱であり、究竟の悟りを得て仏となるのである。生死の大夢から目覚めた時、衆生が仏となるのは刹那の間であり、三大阿僧祇劫という時間の隔たりはない。我々の全ての努力は夢から覚めるためである。だからもう夢を見るのはやめよう。


——生如法師の開示
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