衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年03月20日    水曜日     第1 回の開示 合計4145回の開示

如来蔵は帰属属性を有するがゆえに共用できないことを説明する

一切の法には帰属性があり、物質的な色法は数量で区分することができますが、識心は数量で区分することはできません。如来蔵にも帰属性があり、七識五蘊に帰属しますが、数量で区分されるものではありません。例えば眼識、耳識、意識、意根といった諸識心は、すべて五蘊に帰属しますが、いずれも数量で区分することはできません。識心はすべて数えることができませんが、それぞれ帰属性を有しています。そうでなければ衆生が共有でき、秩序が乱れてしまいます。もし帰属性がなければ、善悪の業も帰属先を失い、因果が成立せず、甲が業因を作りながら乙が業果を受けることになり、世間も出世間も正理が失われます。

まさに如来蔵に帰属性があるからこそ、仏の如来蔵には常楽我浄の性質があり、衆生の如来蔵には常楽我浄の性質がありません。五蘊七識が異なり、業因が異なり、業果も異なるため、如来蔵も異なるのです。等覚妙覚の菩薩の如来蔵でさえ常楽我浄の性質がなく、凡夫の如来蔵はさらに常楽我浄の性質とは縁遠いため、仏と衆生の如来蔵には大きな差異があります。凡夫が三大阿僧祇劫を修行して初めて、如来蔵は常楽我浄の性質へと転じます。如来蔵が仏地の常楽我浄の性質へと転ずるためには、七識心を完全に清浄に修行し、無明を滅尽し、如来蔵に蓄積された染汚をすべて除去する必要があります。それゆえ衆生の修行の時劫と程度が異なることで、その如来蔵の功用に差異が生じるのです。

本来、衆生と仏の如来蔵の本体は平等ですが、七識五蘊が不平等であるため、如来蔵の機能が制限され差異が生じます。七識とは前七識を指し、衆生の七識と仏の七識には極めて大きな差異があり、それによって如来蔵にも大きな差異が生じます。七識の識性を転じて智性となす時、第八識如来蔵は大円鏡智へと転じ、衆生は仏となります。仏の如来蔵を大円鏡智と呼び、凡夫の如来蔵を阿頼耶識と呼ぶのは、機能に差異があるため名称が異なるのです。本来阿頼耶識と大円鏡智の神通妙用は無二無別ですが、前七識の業が異なり、染汚の業が阿頼耶識の広大な功用を制限し、大円鏡智の広大無辺なる神通妙用を発揮できないのです。

——生如法師の開示
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