一切の法には帰属性があり、物質的な色法は数量で区分できますが、識心は数量で区分することはできません。如来蔵にも帰属性があり、七識五蘊に帰属しますが、数量で区分されることはありません。ちょうど眼識、耳識、意識、意根などの識心は、すべて帰属性を持ち、五蘊に帰属しますが、いずれも数量で区分することはできません。識心はすべて数を数えることができませんが、すべて何らかに帰属しています。そうでなければ、衆生が共用できてしまい、秩序が乱れてしまいます。もし帰属性がなければ、善悪の業も帰属性を持たなくなり、それは因果が存在しないことに相当します。甲が業因を作りながら、乙が業果を得るようなことになれば、世間も出世間も正しい道理がなくなってしまいます。
まさに如来蔵に帰属性があるからこそ、仏の如来蔵は常楽我净の性質を具えていますが、衆生の如来蔵には常楽我净の性質がありません。なぜなら、五蘊七識が異なり、業因が異なり、業果も異なるため、如来蔵も異なるからです。等覚妙覚の菩薩の如来蔵でさえ常楽我净の性質はなく、凡夫の如来蔵はさらに常楽我净の性質とは無縁です。したがって、仏と衆生それぞれの如来蔵には大きな違いがあります。凡夫は三大阿僧祇劫の修行を経て、初めて如来蔵が常楽我净の性質に変わります。いかにして如来蔵が仏地のあの常楽我净の性質へと変わるのでしょうか。これには七識心を修行し、七識心を完全に清浄な状態に修め、無明がなくなって、如来蔵に蓄えられた染汚がすべて取り除かれて初めて、常楽我净の性質へと変わります。ですから、衆生の修行の時劫と程度が異なるため、その如来蔵の功用にも差が生じるのです。
実は衆生と仏の如来蔵の本体は平等なのですが、七識五蘊が平等でないため、如来蔵の機能が制限され、差が生じてしまっています。七識とは前七識のことで、衆生の七識と仏の七識には非常に大きな差があり、それによって如来蔵にも大きな差が生じています。七識の識性を転じて智性にすれば、第八識である如来蔵は大円鏡智へと変わり、衆生は仏となります。仏の如来蔵は大円鏡智と呼ばれ、凡夫の如来蔵は阿頼耶識と呼ばれます。機能に違いがあるため、名称も異なるのです。本来、阿頼耶識と大円鏡智の神通妙用は二つながら別のものではありませんが、前七識の業が異なり、染汚の業が阿頼耶識の広大な功用を制限しているため、大円鏡智のあの広大無辺な神通妙用を発揮することができないのです。
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