衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年03月19日    火曜日     第1 回の開示 合計4144回の開示

非自然性・非因縁性とは何でしょうか

『楞嚴経』において仏は、一切の法は自然に存在するものではなく、因縁和合によって現れるものでもなく、如来蔵の性質が顕現したものであると説かれています。例えば山の樹木について、もし自然に存在するというならば、自然に滅するはずです。滅した後、再び生じるでしょうか? そうではありません。さらに多くの樹木は人為的に植えられたものであり、人為的でない部分であっても自然に存在するのではなく、地球の出現に伴い次第に現れたものです。

では樹木は因縁和合によって存在するのでしょうか? そうでもありません。表面的には樹木の発生は、人為的な植樹・灌漑・施肥・日光照射などの因縁和合によって生長したように見えますが、実際にはそうではありません。これらの因縁法は虚妄であり、生滅変異する実体のない作用です。真実の作用は如来蔵にあり、如来蔵が五大の種子を聚合して成り立たせています。五大の種子がなければ樹木は存在せず、樹木の細胞微粒すら現れません。外在するこれらの因縁法も如来蔵の七大種子の聚合によるものであり、実体ある因縁法は存在しません。故に樹木は如来蔵の性質を具え、衆生が樹木を見る時、それは如来蔵の見性・仏性の妙用であり、妙真如性なのです。

宇宙器世間は諸法の一部です。宇宙器世間が最初に生起した時、いかなる因縁あるいは助縁が宇宙器世間の出現を促したでしょうか? 存在しません。器世間の生起を助ける法は見出せません。例えば地球が徐々に形成される過程において、形成以前には地球を形成する助縁となり得る法は存在せず、形成中にも同様に地球を形成する助縁となる法は存在しません。故に地球の出現は非因縁性であり、宇宙器世間の形成も非因縁性なのです。

では宇宙器世間の形成は自然性なのでしょうか? 自然性の概念定義を考察する必要があります。いわゆる自然性とは自ずから然りとして存在し、外界の影響を受けず、常住不変で不生不滅であるべきです。例えば地球の存在は自ずから然りとしてあるべきであり、過去に存在せずある時点で漸次形成されたものであってはなりません。後天的に形成されたものは自然ではなく、形成後しばらくして徐々に退化消滅するなら、同様に自然ではありません。同様に宇宙器世間にも始まりと終わり、生滅と去来があります。それゆえ自然性ではないのです。

以上を総括すれば、宇宙器世間は因縁性でも自然性でもありません。では何性か? 全て如来蔵性です。器世間の生滅および生住異滅は全て如来蔵によるものであり、如来蔵の七大種子によって形成されます。生は如来蔵が生じ、住は如来蔵が執持し、異は如来蔵が変じ、滅は如来蔵の種子が退くのです。故に宇宙器世間を含む諸法は全て如来蔵の特性なのです。

或る者は「因縁法・縁起法も諸仏菩薩の説かれた正法である」と述べるかもしれません。確かに正法ではありますが、それは一定の範囲内における正法であり、修行初期段階における正法です。範囲を超え修行初期を過ぎれば、もはや真実究竟と執着すべきではありません。因縁法・縁起法は世俗諦であり、未だ究竟ではなく、究極的には仮法・空法・方便法に属します。究竟の法は大乗了義法、すなわち般若と唯識法です。最も了義究竟なのは唯識法であり、唯識は到極の法です。因縁法の位置付けは大乗楞厳経を基準とし、小乗・中乗を基準としません。もし小乗と大乗が相争うなら、完全に大乗に帰依し、究竟の法門と義理に帰依すべきです。小乗と中乗は段階的方便法であり、過渡的法門であって到極の法ではありません。用いて証し終えたら即ち捨て、究竟と執着すべきではありません。最も究竟なる到極の法たる唯識でさえ、実証後は即ち捨てるべきです。法を背負って彼岸に至ることはできません。心中に一法でも存在すれば空尽しておらず、心が空尽しなければ真の解脱を得られないのです。

——生如法師の開示
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