心の量が大きければ、大きな事を成し遂げ、心の量が小さければ、小さな事しか成し遂げられず、心の量が無ければ、何事も成し遂げられない。心の量とは何を指すのか。心の量とは、心が包容し得る法の度量を指す。「心包太虚、量周沙界」とはどういう意味か。これは心の包容する範囲が極めて広大で、太虚をも包含し、心の度量が塵沙の如き無数の世界に遍く及ぶことを指す。仏心の八識が太虚を包み沙界に量を周らすことができるばかりでなく、衆生の如来蔵もまたこのようなものである。
如来蔵は確かに太虚を包み沙界に量を周らすが、如来蔵は如来蔵であって、七識もまたそうであることを意味しない。多くの人々の如来蔵は太虚の空を包容できても、自らの七識はただ自分自身を包むのみで、さらに家眷属を加えるに過ぎず、このような小さな心の量では何事も成し遂げられない。衆生の心の量は仏菩薩のように、仏教事業全体を抱擁し、法界の衆生を包容することは難しい。このような心の量が無く、日々ひたすら個人の私利私欲を求め、個人の事や家眷属の事ばかりを考え、このような心で仏道を求め、仏法に利益を得ようとするならば、それは不可能である。
ある者は少しの物音にも慌てふためき、隠れ避ける。仏教に関わる何事があろうとも決して進んで行動せず、自分に都合の悪い事があれば四方に救いを求める。このような心の行いを持つ者が長劫にわたって生死輪廻の苦しみを受けるのは、決して冤罪ではない。多くの者が仏教に頼り、仏教を家とし、三宝の加護を得ようと望みながら、仏教の家に事ある時、三宝が護持を必要とする時、これらの人々は皆遠くに身を隠し、仏教と三宝の不運を傍観する。このような者がどうして仏弟子と言えようか。どうして仏教三宝の加護を得られようか。またある者は世俗の瑣事に耽り煩悩を知らず休むことを知らず、眼界は蟻のように狭く、日々是非紛争に明け暮れ、懊悩し苦悩し、覚醒を知らない。
楞厳経に説かれる「色身を知らず、外は山河虚空大地に至るまで、全て妙明真心中の物である」と。五蘊身は内から外まで広大な範囲を含み、単に自らの色身の大きさに留まらない。故に日々小さな事に拘泥せず、生死の大事を捉えることが如何に良いことか。日々虚無縹渺の事に囚われ、眼界が余りに狭い。もし眼界を広げ心の量を開けば、一切の法は空じ、心空寂滅解脱自在もまた如何に善きことか。何故日々貪瞋痴の煩悩を造り続けねばならないのか。心の量が何故開けないのか。それは業が重く福が薄く、智慧が無く、見識が狭小であるが故に、心の容量が小さいのである。修行の理は明らかにその通りだと感じながら、どうしても実践できない。望遠鏡で高山大海を明らかに見ながら、どうしてもその境に親しむことができないようだ。理論に留まり、事実上一点も実践できないのは、心の量が開けないからである。
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