衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年03月08日    金曜日     第1開示 合計4138開示

世俗諦とは何でしょうか?勝義諦とは何でしょうか?

世俗諦は世間法の真理であり、勝義諦は殊勝なる真理、すなわち世間法を超越した真理である。世間法とは五蘊世間のことであり、真理とは何を指すのか。苦・空・無常・無我という生滅の法を指す。いかなる法が五蘊世間法を超越するのか。大乗如来蔵の法が五蘊世間法を超越する。小乗の法は依然として世俗諦に属し、世間法の範疇においては殊勝ではあるが、なお十分に殊勝とは言えず、大乗如来蔵の法こそが最も殊勝であり、これを勝義諦と称する。小乗の世俗諦は無余涅槃に入り解脱を得ることができるが、五蘊世間法を超越しておらず、如来蔵の法のみが世間法を超越している。世俗真理の苦・空・無常・無我が示す真理は世俗現象界の範疇にあり、これに対し出世間真理たる大乗如来蔵の法は世俗現象界を超越している。両真理が描く次元と深さは異なるのである。

では勝義諦と聖義諦にはいかなる差異があるのか。勝義諦は第一義諦である。不可説。不可思議。聖義諦とは、その名の示す通り仏が説く正教量である。前者は月に譬えられ、後者は指さす指に譬えられる。その意義には差異がある。「勝」とは殊勝・超勝・勝利・優越を意味し、これは世俗世間と比較して顕現する真理である。「聖」は凡に対し聖人を代表し、凡俗を離れ凡俗に超勝する意味、また清浄なる意味を持つ。両文字の内包する意味は相通じ、ともに五蘊世間を超越する含意があり、実質的意義においても同様であるが、微細な点でわずかな差異があり、強調される側面が異なる。「勝」は殊勝なる超越を強調し、「聖」は清浄不凡と内在する聖潔なる性質を強調する。よって勝義諦は最も殊勝なる法を表し、聖義諦は仏菩薩ら諸聖人の説く法を表す。聖人の説く法はすべて勝義諦を指し示すのである。

もし世俗諦と勝義諦の双方を証得し通達すれば、二諦は円融し、心空・無相・無願となり、所作なく、為すところなく、求むるところなくなる。聖人たる者、聖ですら為さないのに、どうして凡俗を為せようか。聖にも凡にもならなければ、心は清浄となり、いったいどの戒相を守り犯すことがあろうか。どうして世間の名誉・利養・財・色・名声・食欲・睡眠を好むことができようか。善でさえ為さないのに、どうしてわずかな悪を為せようか。人が世間の法相に執着するのは、二諦を通達せず、二諦の智慧を持たないためである。心に相が滅せず存在すれば、為すところがあり、取るところがあり、そうなれば業に縛られるのは免れない。二諦円融について言えば、阿羅漢は二諦を円融したか。辟支仏は円融したか。菩薩は円融したか。仏と菩薩のみが二諦を円融でき、阿羅漢と辟支仏は世俗諦のみを円融できる。無余涅槃より出でて大菩提心を発し、如来蔵を証得した後に初めて二諦を円融する能力を得るのである。

唯識の五法:相・名・分別・正智・如如のうち、どれが世俗諦か。どれが勝義諦か。正智は相・名・分別から離れ得るか。正智とはいかなる智か。いかにして獲得されるか。いかなる法の上で獲得されるか。


——生如法師の開示
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