衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年03月11日    月曜日     第1 回の開示 合計4139回の開示

心量とは何ですか?

心量が大きければ、大きな事を成し遂げ、心量が小さければ、小さな事を成し遂げ、心量が無ければ、何事も成し遂げられない。心量とは何か。心量とは心が容れられる法の度量を指す。「心包太虚・量周沙界」とはどういう意味か。これは心の包容が極めて広大で、虚空全体を含み込み、心の度量が塵沙のように数多い世界に遍く及ぶことを指す。仏の八識が太虚を包み沙界に量を及ぼすのみならず、衆生の如来蔵もまた同様である。

如来蔵は太虚を包み沙界に量を及ぼすものではあるが、如来蔵はあくまで如来蔵であり、七識も同様であるとは限らない。多くの者の如来蔵は太虚を包み得るにも関わらず、自らの七識は己自身のみを包み、さらに家眷親族を加える程度の小さな心量では、何事も成し遂げられない。衆生の心量は仏菩薩のように仏教事業全体を抱え、法界の衆生を容れるほど広くはない。このような心量が無く、日々私利私欲に汲々とし、個人や家眷の事ばかり考えている者が仏道を求め、仏法に利益を得ようとしても、それは不可能である。

些細な事態に狼狽して逃げ隠れし、仏教に関わる事柄には決して関与せず、自身の事があると四方に救いを求めるような心行の者が長劫にわたり生死輪廻の苦しみを受けるのは、決して冤罪ではない。多くの者が仏教に縋り、仏教を家と見做し、三宝の加護を得ようとしながら、仏教という家に事が起こり三宝が護持を必要とする時には遠くに身を隠し、仏教と三宝の不甲斐なさを傍観するような者が、どうして仏弟子と言えようか。どうして仏教三宝の加護を得られようか。また世俗の瑣事に溺れ煩悩に休みなく、蟻のような狭い視野で日々是非に紛争し、懊悩し苦悩して覚醒しない者もいる。

楞厳経に曰く「色身を知らず、外は山河虚空大地に至るまで、すべてが妙明真心の中の物である」と。五蘊身は内から外まで広範にわたり、単に己が色身の大きさに留まるものではない。故に日々小事に拘泥せず、生死の大事を捉える方がどれほど良いか。毎日が空虚な事柄に過ぎず、視野が狭すぎる。もし視野を広げ心量を開けば、一切の法は空じ、心が空寂して解脱自在となるのに、何故日々貪瞋痴の煩悩を造り続けようか。心量が何故開けないのか。それは業が重く福が薄く、智慧が無く見識が狭いため、心の容量が小さいからである。修行の理は明らかにそうだと感じながらもどうしても実践できず、望遠鏡で高山大海を眺めながら現地に赴けないようなものだ。理論に囚われ事相で一点も実践できないのは、心量が開かないためである。


——生如法師の開示
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