世俗諦は世間法の真理であり、勝義諦は殊勝なる真理、世間法を超越した真理であります。世間法とは五蘊世間のことで、真理とは何を指すのでしょうか。苦・空・無常・無我という生滅法を指します。いかなる法が五蘊世間法を超越するのでしょうか。大乗如来蔵法こそが五蘊世間法を超越します。小乗法はなお世俗諦に属し、世間法の範疇においては殊勝ではあるものの、未だ充分に勝れたものではなく、大乗如来蔵法こそが最も殊勝なるものであり、これを勝義諦と称します。小乗の世俗諦は無余涅槃に入り解脱を得ることはできても、五蘊世間法を超越してはおらず、如来蔵法のみが世間法を超越するのです。世俗真理の苦・空・無常・無我が示す真理は世俗現象界の範疇にあり、出世間真理である大乗如来蔵法は世俗現象界を超え出ています。両真理が説く次元と深さは異なるのです。
では勝義諦と聖義諦にはいかなる差異があるのでしょうか。勝義諦は第一義諦であり、言葉で説くべからず、思議を超えたものです。聖義諦とは、その名の通り仏の説かれた正教量であります。前者は月に譬えられ、後者は指を指すようなもの。その意義には違いがあります。「勝」とは殊勝・超勝・勝利・優越を意味し、世俗世間との比較において顕現する真理です。「聖」は凡に対し、聖人を表し、凡俗を離れ超勝する意味、また清浄なる意義を帯びます。両字の内包する意味は相通じ、ともに五蘊世間を超越する含意を持ち、実質的意義においても同じですが、微細な点で少し違いがあり、強調する側面が異なります。「勝」は殊勝なる超越を強調し、「聖」は清浄非凡と内在する聖潔なる性質を強調します。すなわち勝義諦は最も殊勝なる法を示し、聖義諦は仏菩薩ら諸聖人の説かれた法を指します。聖人の説法はすべて勝義諦を指し示すのです。
もし世俗諦と勝義諦をともに証得し通達すれば、二諦は円融し、心は空・無相・無願となり、作することなく為すことなく求めることもなくなります。聖人たる者、聖なることすら為さず、いわんや凡俗を為すことがあろうか。聖凡を為さざれば心は清浄となり、いずれの戒相を守り犯すべきものがあろうか。世間の名誉利養や財色名食睡を好むことがあろうか。善でさえ為さず、いわんや一絲の悪を為すことがあろうか。人が世間法相に執着するのは、二諦を通達せず、二諦の智慧を持たないためです。心に相が滅せざれば必ず作為が生じ、取執が起こり、業に縛られることを免れません。二諦円融について申せば、阿羅漢は二諦を円融したでしょうか。辟支仏は円融したでしょうか。菩薩は円融したでしょうか。仏と菩薩のみが二諦を円融し、阿羅漢と辟支仏は世俗諦を円融するのみです。無余涅槃より出でて大菩提心を発し、如来蔵を証得して後、初めて二諦を円融する力を得るのです。
唯識五法:相・名・分別・正智・如如。いずれが世俗諦か、いずれが勝義諦か。正智は相・名・分別を離れ得るか。正智とはいかなる智か。いかにして獲得されるか。いかなる法において得られるのか。
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